毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

アンチ・オイディプス。「欲望機械」というより「中毒機械」。

1970年、人類が共産主義社会ではなく、資本主義社会を選択した解釈として、当時の精神分裂症気味の人たち、今でいう統合失調症の人たち、の背景を取り込んで、ドゥルーズとガダリは、「アンチ・オイディプス」という本の中で、人間を「欲望機械」と説明しました。これによって、何故人間が資本主義社会を選択したのか、という事に対して、上手く説明できる解答が世界に対して示されました。

 

最近よく耳にする不倫の話題とか、そういうのを聞いていると、資本主義社会をドライブしている人間性の性質は、「欲望機械」ではなく、「中毒機械」と呼ぶ方が、現代の人々に現れている状況を上手く説明できるのではないか。今回はそういうお話です。

 

資本主義社会は、人々のどのような欲望も取り込んでドライブしていく社会です。人々のありとあらゆるニーズがあれば、食べ物や衣服だけではなく、お酒やたばこ、砂糖を多く含むスイーツ、そういう止められない中毒的な行為、そのようなものも、市場原理に利用できるものはこの社会では活用されます。

 

現代は、人々にとって社会の変化が速く、適応する事が難しい社会になってきています。ストレスも高まっています。ですから、会社勤めでも、家を夫婦や家族で営んでいくにしても、人間同士の色んなひずみが出てきて、それらのストレスを解消する為に、人間の快不快に基づく快感というか、感覚的に心地良い事を、生活に取り入れていく事で何とか回していく、そんな社会に見えます。

 

何故、欲望というより中毒と呼ぶ方が上手く説明できると思うかと言うと、欲望と言うものには、自分の個人的な意志や望みのようなものを含まれていて、自分自身で責任を持って選び取る側面がありますが、実態はそうではなく、人々は特に自分で責任をもって選択しているわけではなく、感覚的に不快だから、短期的にでもより快感が得たいために、感覚に任せて生きているように思えるからです。

 

私もスイーツが好きで実は毎日食べています。糖分補給という意味もありますが、それより疲労感とかストレスの日常的な高まりなどもあって、止めたくても止められない、そのような感じです。快を得たいという感覚に任せた日常であって、中毒性を感じます。タバコやお酒も似ています。

 

不倫も似ています。夫との関係が恋愛という点で終わっていても、離婚するにはコストがかかるし、でも恋愛はしたい、SEXはしたい、という欲求はあると思うんです。でも、我慢できるならやらない方が良いかなという事も解っているわけです。欲求というよりも、感覚的な期待感の高まりを我慢できず、自由意志によるものではなく、快の感覚に任せた中毒性によるもののように思います。

 

現代は、家族の形態も時代に合わなくなってきていて、資本主義社会に台頭する政治体も明確に現れず資本主義の独り勝ち状態で、社会の変化は速く、人々のストレスが極めて高まっていると思います。また、インターネットやSNSの発展もあって、人々は自分とは無関係の多くの他の人の情報を共有していて、脳はランダムな情報でいっぱいで脳神経も負荷の高い状態になっています。インターネットを通して、今の自分はこの世の中では不十分ではないかと常に感じていて自尊心は不安定になりがちです。

 

過剰なまでの感覚に任せた生き方、中毒性、自分自身を見失いがちな自尊心の問題に対して、近年、マインドフルネスや瞑想が流行ってきています。アメリカでも、Zenというアルファベットがよく見られます。この振り回されやすい現代世界の中で、自分自身を取り戻そうとする試みのように見えます。自分を取り囲む環境に振り回され、自由意志のない、感覚や中毒性に任せた生き方から、主体的な自己を獲得しようとする実践のように思います。

 

アンチ・オイディプスでは、人間を「欲望機械」と表現したわけですが、当時はまだ十分に神経科学や分子生物学の科学が一般化した時代ではありませんから、人間の神経症的なものの性質に起因するとは見抜いていたものの、より脳神経科学的なもの、神経伝達物質やホルモンなど分子化学に基づく神経機構や中毒性とまでは説明し得なかったと思います。それらは、人間の人格や自由意志とは分離可能な、無意識に組み込まれたコントロールが困難な感覚的なもの、中毒性なものの支配されていると考えた方が、より説明できると思います。

 

そのようなわけで、欲望機械より中毒機械の方が上手く言い得ていると感じます。だからと言って、欲望機械を否定しているわけではありません。人間は、自分の欲望に従って生きればもっと自由に生きていける、という側面も欲望機械にはあるし、事実そのような観点に気付いて実践している人は、現代は多くいると思います。それより、人間の中毒性的な側面が、現代の資本主義社会をドリブンしていて、極めて自分自身を見失いやすく、自分の身を削りながら生きていくという、生きづらい奇妙な生き方にならざるを得なくなっている、という事です。

 

無意識や意識、主体性や自己の観点から、自分の欲望が、自己の主体的のものか、意識的に認識されたものか、感覚的なものか、中毒的なものか、そのような軸で気付けると良いのではないかと思います。このような事に関して、また、別の記事で示せればと思います。

習慣としてやってみたい事。身体を使う事。

自分がやりたいと思う事を習慣にしていきたいと考えているのですが、先日、習慣に向いている事について考えた結果、習慣の性質上、思考や創造など頭を使う事より、頭はあんまり使わず身体を使う事の方が適しているという事が分かりました。

 

今、私は、身体を使う習慣を幾つかやっています。

 

朝の10分のテレビ体操。この習慣は、前日の疲れを引きずった朝でも比較的容易に出来てとても良いと思っています。

 

また、朝シャワーを浴びる前に行っている10回程度のスクワット。とても簡単に出来ます。シャワーの水がお湯に変わるまでの1分程度の待ち時間なので、どうせ暇なので、お得感があります。

 

あと、瞑想ですが、精神を集中させないといけないという部分があるので、瞑想の質を問わなければ続けられますが、これ自体は実践としては難しい習慣ではあります。また、夜に、瞑想にストレッチやマッサージを組み合わせてやる事もありますが、これはとても良いです。

 

ただ、最近、身体を使う習慣を他にももう少しやっていきたいと考えるようになってきました。日々の生活の中で身体の疲れを感じる事が多いので、身体を動かすことが必要だと感じるからです。また、仕事以外でも仕事の事が頭を巡ってしまう事が多いので、頭を使わず身体を使う習慣を身につけたいという事もあります。基本的に、頭を使うにも、身体が土台で大事だと考えてはいます。

 

なので、これから身体を使う習慣として、どういう事が可能か考えていきたいと思っています。

 

例えば、ジョギングです。最近朝食抜き生活をやって、身体が軽くなってきた感じがあるので、家と会社の間に行き帰りに、少し走ったりしています。とても心地良いです。なので、走る事を習慣として取り組んでみたいと最近よく思っています。問題は、私が住んでいる街は住宅街が少し広がっていて、近くに大きな公園もなく、車通りもけっこうあって、走りにくいと感じる事です。これまでも何度かジョギングしたいなと思ってきましたが、そういう理由で断念してきました。何か工夫が必要です。

 

そして、サイクリングです。会社への通勤に電車を使っているのですが、最近学生さんが増えてきたこともあって、電車内が混雑してきて、それで自転車通勤に変更したいなと思うようになりました。会社の同僚が何人も自転車通勤をしていて、クロスバイクに乗っているそうなのですが、それがもの凄く速くて見ていてとても心地良さそうだと感じました。色々と自転車について教えてもらって、先日まで自転車通勤に変更しようと考えていたのですが、私はいつも会社からの帰りに、最寄りの駅でスーパーに寄って買い物をする事が多いので、自転車通勤に帰ると買い物がしにくくなるという点で躊躇してしまいました。それで結局数週間経ってしまって、解決策が見つからずにいます。もう一つ何かアイデアが必要です。

 

他には、筋トレがあります。朝に、ほんの少しお風呂場でスクワットをやっていますが、もう少し追加したいと考えています。これまで、何度か腕立て伏せや腹筋、背筋の筋トレをやってみたこともあったのですが、継続は出来ませんでした。やっぱり、筋トレは肉体的にきつい事ではあるので、毎日の習慣の中に組み込むことが出来なかったんだと思います。スクワットはもう4か月以上毎日やれていますし、上手く生活の一部に組み込めました。筋トレはそんな感じで隙間時間に組み込むような上手いアイデアが必要なのかもしれません。

 

そんなこんなで、身体を使う習慣をもっとやりたいなと思っているわけですが、もう一歩踏み出せずにいます。何かアイデアを出して、今後習慣として出来るようにトライしていきたいと思います。

人の話で疲れたという話。仕事・人間関係・大人の事情

この1週間、振り返ってみると、人に関する話で非常に疲れたという事を実感しています。人に関連する事は本来関心があって、同じ人間だから自分の事にも関係するので、他人事にもできず、色々考えてしまうんですが、どうにも疲れてしまいます。

 

最近の話題で思い出すと、仕事に関する事、人間関係で思う事、大人の事情。それぞれに、色々と考えさせられることがあって、興味深くはあったものの凄く疲れてしまったという話です。

 

仕事に関する事では、自分の事ではなくても、同僚がパワハラ上司と仕事をする事になって、色々と仕事に関して口出しをされるとか、また他の同僚は、私の部署とは違ってトップダウンの構造が強く仕事に自由度が無くて、チームとして取り組んでいる業務が息苦しいとか、とにかく会社での色んな事を聞いていると、これらの事について色々に考えされてしまいます。家に帰った夜でもいつまでも考えてしまって、このところ、落ち着かない夜を過ごしていました。

 

また、会社での人間関係に関する事も聞いていると疲れるというのがあります。自分自身は、好きな人と仕事をする、をモットーにこの1年以上、良好な人間関係を重視して、人と仕事を自分で選んで働いてきました。なので、自分の直接の周りの人たちとは人間関係が良く、仕事はどんどん楽しくなってきていますが、他の同僚は人間関係の悪い中で仕事をしている事が多く、それらの話を聞いていると、その話自体に疲れてしまうし、何故そんなに不自由な働き方になってしまうんだろうと、考えさせられるものがあります。

 

もうひとつは、仕事とは全く違う話で、不倫や夫婦の不和に関する話です。不倫に関してですが、どうも、自分が思っているより不倫をしている人が多いという事です。私は40代ですが、同世代の人たちも同様で、ストレスの多い日常ですから、不倫せざるを得ないような事情があるんだという事は聞いていると理解できるのですが、夫との関係に耐えられないから、夫や子供にばれないように、定期的に不倫をしていたり、また別の人は不倫をしているが、妻からパイプカットをさせられていたりとか、色んな事情で不倫をしているようです。また、夫婦間で会話が無くなってもう1年、こっそり婚活をやっているとか、そんな話もあって、とにかく、現代は家族という形態に無理があるんだなという事を思わせるわけです。私自身、結婚、家族という形態は、歴史の発展段階としても、時代に合わなくなってきていると思っているのですが、いずれにしても、このところこのような事を考えていたので、とても疲れていました。

 

人間に関する事は、とても興味深く関心があるのですが、そのような事ばかり聞いていると、凄く疲れてしまうというそういうお話しでした。毎日のようにこんな話をしていると、良くないなという、そんなに重要でもないお話しでした。

朝食抜き生活を始めて気付いた事。身体が軽い・肌きれい

妻と始めた朝食抜き生活ですが、5週間ほど経ちました。最近ある事に気付いたのでお話ししようと思います。それは、身体が軽くなってきたという事と、肌がきれいになってきたという事です。

 

体重は基本的に毎日測っていて、ちょっと前まではほとんど変わっていないと思っていたのですが、ここ最近若干減ってきたのではと思い始めていました。とは言っても、1kgも減っていないので誤差かなとは思っています。なので、もう少しモニターは続けていこうとは思っていますが、強いて理由をつけるならばと考えてみると、最近身体が軽いなという事です。

 

基本的に、会社に行く時は徒歩と電車で、最寄りの駅まで歩くと10分くらいかかるのですが、家を出てからすぐ走り出したくなるというのがあります。実際、駅まで半分くらいは走っています。そして、会社の最寄りの駅に着いた後も、会社まで10分くらい徒歩でかかるのですが、それも半分くらいは走っています。朝は身体の元気が良いからか、走りたくてしょうがない感じです。社内にいるときも、建物の外を移動中は走ったりしています。帰宅も同様です。会社を出たら、駅までかなり走っています。もちろん、息切れはしますが、以前ほど、それできついという事はありません。

 

また、走るとき、けっこう足というか、太ももが上がる感じがします。そして、以前は感じていなかったのですが、足で地面を蹴るとき、足が後ろ側に上がるようになった感じがします。長い間、もうダッシュは出来ないんだろうなと思っていましたが、少しダッシュ出来る感じになってきました。20代の時ほどまだ走れないとは思いますが、それでも、ここ10年は「もう走れなくなったんだな」と思っていたので、この感覚は凄く爽快でとても嬉しく感じています。

 

もう一つは、肌がきれいになったような気がするという事です。中田敦彦Youtubeでも、「肌がきれいになった」と言っていたので、自分もどうかなと思って見てみたのですが、確かにそう思います。朝食抜き生活を始めたと言っても、食事の内容まで完全に制限しているわけではなく、私は菓子パンとかも割と好きで以前のように食べています。毎日のように食べているので少し制限しないとな、と思ってはいるのですが、それでも、朝食を抜いた分の効果は出ているのかもしれません。朝は、朝食の後にパンにチョコレートを塗ったものを食べていましたから、朝の分のそれが無くなっただけでも効果はあったのかもしれません。もちろん改善の余地はありますが、あまり無理をするとそれがストレスになるので、制限はし過ぎないようにはしています。

 

そんな感じでしょうか。今のところ、身体の調子の他、特に変わりなく過ごしています。まだ続けていくつもりです。モニターを続けて、また何か気づきがあったらお話ししたいと思います。

1日の中で疲れを感じた事。会社・会話。そして反省。

今朝起きたら、疲れを感じていました。色んな事で疲れはたまるので、その原因を特定する事は難しいですが、例えば前日何に疲れを感じただろうという事について、思い出してみる事にしました。それで、自分がどんな時に疲れを感じ、疲れが溜まりやすいのか、探ってみたいと思います。

 

少なくとも2つ。会社での仕事と、妻との会話かな、と思います。

 

私は研究者として仕事をしています。実験を進めるために必要な装置を購入しようとしているのですが、社内の承認プロセスが多段階になっていて、幾つかの部署の承認を経て、実際に発注のプロセスに移るわけです。その為、購入するための書類をいくつか作成して、提出するわけですが、昨日は案の定、安全グループで装置の使用に関する安全性について指摘があって、承認プロセスがストップしてしまいました。よくある事なのですが、自分の中でこのプロセスを速く済ませて、さっさと発注したかったために、指摘のメールが入った時、凄くストレスを感じてしまいました。

 

もうひとつは、妻と会話がスムーズにいかなかったという事です。最近、妻は放送大学のテキストで、フランスの現代哲学について勉強しています。フランスの現代哲学は、構造主義など私も好きな内容です。昨日ちょうど一章から読みだしたようで、とても難解だったと言っていて、どんな内容だったのかという事について話をしました。導入として、ベルクソンの「直観」について説明があって、これに対して人間には「知性」があるというような話で、妻は個人的には「知性」の方が重要だと思うと言ったので、それはそうだけど、ベルクソンの時代では、プラトンデカルトの流れがあるから、人間を取り戻す意味で「直観」の発見は重要だったという事を主張したいがゆえに、力説してしまいました。しばらく、妻が「知性」、私が「直観」、みたいな立場の、かみ合わない主張を繰り返して、妻が疲れ果ててしまいました。私も、またどうでもよい事で力説してしまったと後になって後悔していました。

 

疲れを感じた事はこの2つです。

 

会社での事を振り返ると、このような事はよくある事です。社内の承認プロセスは一般に時間がかかります。そんなに高額のものでもないので、さっさと発注したいという思いがあったので、そこでプロセスが止まってしまうと、発注がかなり遅くなることになるので、うんざりしてしまったわけです。ですが、各プロセスは、会社としての安全性の確保など必要なプロセスで、そこには多くの人が携わっていますから、時間がかかってしまうものなのです。自分が、仕事を思い通り進めたいという気持ちが強くて、思い通りにならないとストレスを感じてしまったという事です。

 

妻との会話は、このようなやりとりはこれまでのよくありました。今思えば、そんなに強くベルクソンの立場を主張しなくても良かったように思います。単なるちょっとした会話なのに、自分の主張を通したいがあまり、妻に分かってもらおうとしてしまったわけですが、結局、妻を疲れ果てさせる結果になってしまったし、これも自分が自分の話を思い通りに進めようとしてしまった結果です。妻は昨日は元々疲れていたと言っていて、本当に妻に申し訳なく思っています。

 

自分の場合、この「思い通りにしようとして思い通りにならない」という事がストレスとなって、それが疲れの原因のようです。でも、思い返せば、「思い通りにならなければならない」というわけではないのです。自分の中の問題で、客観性を欠いているわけです。

 

そのようなわけで、疲れの原因は、思い通りにならなかったために強くストレスを感じた、というような事でした。でも、こうやって反省してみると、自分の疲れやすいパターンが見つかるのは良い事です。もっと自分を上手くハンドルできるようになっていきたいと思っています。

習慣としてのブログを書く事について考える。思考や創造ではなく、事実に基づいて書く。

ブログを毎日書く事を習慣するという事に関して、習慣の性質から、どのように書くのが良いのか、考えてみたいと思います。実際、私自身ブログを半年以上毎日書き続けていますが、どういうブログを書こうと悩んだり、書くアイデアが出なかったりして、苦労した日々がありました。なので、そういう事を、一度考えてみたいと思いました。

 

その前に、習慣とはどういうものかについて考えてみますと、習慣とは、自分の生活を形作っている日々行っている事で、朝の支度、朝食の準備や朝食、歯磨き、を含めて、毎日自然とやっている事です。無意識と意識という観点から言うと、無意識に実践できるような事で、毎日継続しているがゆえに、身体としては自動的に労力なく出来るような事でしょうか。意識的に思考してエネルギーをかけて行うような事ではありません。それでは、実践しようとしている事に時間やエネルギーがかかり過ぎて、習慣としては定着しません。

 

そういう意味で、ブログを習慣として書くというのは、毎回「思考」や「創造」によって書くのではなく、「事実」に基づいて書くのが良いのではないか、という事です。

 

ひとつに、「出来事」を書く、というのがあると思います。身の回りで起きた毎日の出来事、その日にあった印象的な出来事を、ブログとして書き記すのは、思考や労力をそんなに使わず、事実をそのまま書いているので書きやすいように思います。

 

そして、「思った事」、「考えた事」、「感じた事」を書くという事です。上の出来事にも似ていますが、それに関連して、自分自身が思った事や考えた事という事は、自分の中に湧いた事実に基づいて書いていますから、創造力によってアイデアを捻りだすような作業とは違うので、書きやすいと思います。

 

また、私の場合は、色んな習慣を続けていますが、各習慣にフォーカスして、「習慣として行っている事を定期的に振り返る」という事です。習慣は、時間とともに変化したり、自分自身に変化が起こったりするので、その確認の作業は自分に新しい発見をもたらしますし、自分にとってとても役に立ちます。また、色んな人のブログもそうですが、継続している習慣の途中経過をブログとして書き記すことは、読んでいる人にとっても興味深くて役に立つものです。

 

もうひとつは、自分なりの「ブログの書き方のパターンを決める」という事です。日々の印象に残った「出来事」についてのブログや、何かあった事実について「思った事」「考えた事」についてのブログなど、テーマを毎回決めるといったことです。私は、ひとつのブログにつき、ワンテーマで書くように心がけていたりします。また、ブログの文章構成をあらかじめ決めるという事です。パラグラフの数を決めるとか、各パラグラフでは、背景、目的、内容、まとめ、みたいにするとか、自分にとって書きやすいパターンを決めてしまうという事です。こうする事で、毎日書く労力が減るように思います。

 

そんな感じでしょうか。毎日鋭い視点の記事ばかり書くのは、習慣としてブログを書くという観点で考えるととても大変な事です。出来るだけ楽に書けるような仕組みが良いと思います。基本的には、思考力や創造力に頼って書こうとせず、「事実」をベースにして書いていく事が習慣として続けやすいコツだと思います。

 

今後、習慣としてのブログに書き方については、考えがきっと変わってくると思うので、その時はまたブログにしたいと思います。

習慣に向いている事とそうでない事。頭と身体。

習慣を身につけていく事は、自分自身を進化させていく事において重要な事だと思っていますが、何でもかんでも習慣に出来るかと言うと、そうでもないように思います。習慣とは、目標としては、自動的に出来るようになって継続していけるようになる事ですから、変化とか進化とかの観点では、身につけた習慣を何も変えずに続けていても、進化は起こりません。

 

そこで、自分が行っている習慣について振り返って、習慣に向いている事、そうでない事を考えてみたいと思います。

 

まず、朝のテレビ体操です。これは、毎日の軽い運動を維持するために行っているもので、血行不良や頭痛防止のために、さらに言うと、体力の維持の為にやっています。ただ、テレビを見ながら体操を真似るだけなので、特に労力もかからず、ただその時間にテレビの前に向かえば出来ます。このような、特に頭を使わずに、同じことを続ける事は、習慣にするには向いていると思います。

 

次に、朝のサラダとフルーツヨーグルトの準備です。冷蔵庫から野菜や果物を取り出して、包丁で適度なサイズにカットして、お皿に盛っていく作業です。その時に冷蔵庫にあるものを適当に選ぶときにどれにしようかなと頭を使いますが、大した労力はかかりません。私の場合は、朝起きてすぐ、頭がまだそんなに回らない時などにもこの習慣を行っていて、1日を始めやすく感じています。このような、頭を使わない、身体に任せてできる事は習慣に向いていると思います。

 

朝の英語のリーディングです。毎朝30分程度、最近は声に出しながら読んでいます。英語の本は、英語用の頭を使いながら読むので、それなりに大変ですが、英文をただ読むだけで、読むこと自体が楽しいので続けやすく感じます。また、どのような英語の本を選ぶかは重要で、あまり難解過ぎる本を選ぶと、内容が追いにくく頭を物凄く使って読むのがつらくなります。なので、自分にとって適切な本を選べば、英語のリーディングは、習慣に向いていると思います。

 

いつもその後に行っているのが、朝の瞑想です。いつもカーテンを開けて、椅子に座って、目を閉じて10分程度行っています。仕事に行く前という事もあって仕事に関する思考の断片にまみれる事が多いですが、多少に自分に向き合える時間になっていて、瞑想の実践自体は継続できています。瞑想の高い精度を求めず、瞑想を続ける事という意味では、これは習慣に向いていると思います。

 

あと、朝にはブログを書いています。ブログは、書く事があればすぐに書き始められますが、すぐに出てこない時はそれなりに苦労します。また、他の事に頭が捕らわれて落ち着かなかったり、頭が疲れていたりすると、書くのに時間と労力がかかります。その意味で、ブログを書こうとすること自体は継続に問題ありませんが、実際にブログを書くという事になると、それなりに頭を使うので、習慣に向いているかというとそうではないように思います。書く事に対する向き不向きの要因が大きく、個人差があるように思います。書き方を決める、書く内容を統一する、など、出来るだけ頭を使わずに書けるような工夫をしないとただ描き続けるのは難しいと思います。

 

また、イラストです。私の場合、毎日イラストを描いていますが、描くイラストは毎回違うものにしています。なので、どういうものを描こうかなと頭を使うので、習慣としてはそんなに簡単ではないと思います。ただ、私の描いているイラストは複雑で時間のかかるものではないので、思いついたらそんなに時間はかかりません。描く事自体が楽しいので、描く事に集中してしまえば、描けてしまいます。そのような意味で、イラストは、ブログと同様に個人差が大きいと思いますが、習慣には向いてはいないように思います。続けるには、イラスト自体の複雑さ、線の多さ、など描く内容を絞っておくなど工夫は必要だと思います。

 

そんな感じでしょうか。振り返ると、習慣には、頭をより使うものは向いておらず、身体を使う事が中心なものは向いているように思います。頭を使うとはこの場合、思考するという事だと思いますが、思考する事を習慣化するというのは難しいように思います。思考するというのは、創造するという事でもあるので、同じことを繰り返す習慣それ自体では出来ないように思います。習慣による創造や進化は、習慣に取り組んでいく中で、修正したり改善したり新しい習慣に変化させたりする事を考える時に起こるように思います。

 

今後、習慣として続けていきたい事については、イラストなど、特に習慣に向いていないと思う事について、書き方を決めたりしてより工夫をする必要はあるように思います。