毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

生きるための物語を習慣によって作る

人々は長い間、社会の物語を生きてきました。そして、20世紀はイデオロギーが終わったと言われています。例えば、19世紀から、資本主義社会と共産主義社会の物語の対立がありました。第一次世界大戦第二次世界大戦、そして冷戦を経て、一応資本主義社会が勝利したと言われています。ソ連は崩壊したし、中国は共産党一党独裁ですが、実質的には共産主義ではありません。その意味では、資本主義社会という物語を生きていると言えるのかもしれません。ですが、資本主義社会の中身は、社会の物語ではなく、個人主義です。

 

それでも、もちろん人間は物語を生きてきたし、これからもきっと物語は必要なはずです。上記では19世紀から今に至る最近の話をしましたが、それ以前も、宗教や神の世界を生きてきました。これらは社会の物語と言ってよいと思います。でも、繰り返しですが、現代は社会の物語は有効に働かなくなりました。

 

ではこれからは、人々はどのように物語を生きていったらいいのでしょうか。その事についてお話ししたいと思います。

 

物語は終わったと言いましたが、実際は資本主義社会という物語を生きています。日本の政治も、資本主義社会に台頭する政治体制を模索してきましたが、今のところ見つかっていません。

資本主義社会は物語ですが、その中身は個人主義です。個人の自由主義によって資本主義社会が成り立っています。ですから、個人で生きるスタンスが中心なので、社会の物語として皆で一体感を持って生きていくのは困難です。その為、これからは社会の物語ではなく、個人個人が自分の物語を作っていく事が重要です。「自分はこのように生きる」という信念を持って生きるという事です。それを支える自分の物語を必要としているのです。

 

では、どのようにして、自分の物語を創っていけばいいのでしょうか。社会の物語は、歴史やその時代の社会から現れてくるので、それに基づいて周りの人たちと同じように物語にできますが、個人の場合だと単純にはいきません。だから、自分なりに歴史を勉強し、世の中を理解しなければなりません。それなりの一般教養は必要です。そして、自分なりの世界に対する解釈や理解、把握が必要です。そのような知識を集めながら自分なりに納得できるように物語を作っていかなければなりません。自分の物語ですから、「他の人が言っていたから。」と言って簡単に物語を借りてくることができません。自分だけで自分の物語を作って決めなければなりません。

 

そして、その物語を自分のものにするために、物語を習慣化によって自分を支える確かな物語にしていかなければなりません。物語の自分への刷り込みのようなものです。つまり、自分に物語を覚えさせる作業が必要だという事です。それには、その物語について、自分で毎日のように考えて、自分の物にする事が大切です。本を読んでそれを参考にして自分で考得ることも大事です。とにかく、自分の信念で生きていけるように、自分に基づく物語を考え抜きましょう。

 

自分の物語は本当に自分が生きていく事を支えます。そして、それで終わりではありません。個人の時代とは言え、社会が無くなることはありません。ですから、自分の物語を通して社会がどのようになっていくことが望ましいか、自分で考えなければなりません。自分の物語から社会の物語の方向に向かっていくのです。これからはそういう視点が必要です。ぜひ、生きる事の目標や支えが足りないと思うなら、自分の物語を作ることをトライしてみてください。

人は何故不倫をするのか。欲望機械は不倫する。

人は結婚をしているのになぜ不倫をするのでしょう。私はあまり知らなかったのですが、世の中の夫婦たちは、かなりの人が不倫をしているそうです。自分も実は不倫をしているんだよねとむしろ思っているは多いと思います。一体何故なんでしょうか。

 

まず、結婚相手がすでに大事ではなくなっているからです。結婚してしばらくの間はほとんどの人は不倫をしないと思います。まだ大事な人だと思っているからです。でも、だんだんと時間がたつにつれて、相手を尊重しなくなって、軽視するようになって、そして、他の人と恋愛するのだと思います。逆に言えば、もし結婚相手がとても大事な人だったら、不倫しないと思います。それは、もし不倫をしたら、相手が悲しみ傷つくからです。相手が不安になったり苦しくなったり病気になったりする可能性があるからです。そのような状態になってほしくないと思っていたら不倫はしないと思います。

 

まだ理由はあります。それは、人は基本的に恋愛関係を求めているからです。結婚相手の事が仮に好きな気持ちがあっても、別の人と恋愛関係の機会があったらその人とも恋愛関係になりたいと思うからです。恋愛関係は幸福感をもたらします。また、人に愛されると承認欲求が満たされます。恋愛関係はうれしいことしかありません。オキシトシンなど身体も喜びます。ですから、基本的に人は恋愛に開かれているのです。

 

さらに言うと、不倫する理由は、新しい恋愛関係を求めているからというのもあります。結婚相手とも恋愛関係が維持されていても、一度経験するとその関係に慣れてきます。恋愛のときめきは人を喜ばせますが、やはり、その人との恋愛関係はその人とだけの関係です。時間とともに飽きてしまいます。そして、別の人との恋愛の味は違う味がします。だから、別の人との恋愛をするチャンスが来たら、新たに恋愛関係をもちたいと思います。新鮮な恋愛は、新たな喜びをもたらします。

 

おそらく、上に挙げた3つの理由、結婚相手が大事ではない、基本的に恋愛を求めている、そして、新しい恋愛を求めている、に当てはまる場合は不倫の可能性があります。逆にこの理由が当てはまらない場合は、不倫はほとんどしないと思います。結婚相手との恋愛関係を維持すると思います。

 

では、何故人は結婚するのでしょうか。結婚さえしなければ、不倫に悩む必要はないはずです。それでも、結婚するのは、社会通念によるためです。現代の社会は、結婚の意味合いが強く、結婚することによって夫婦という関係を公的に認めます。夫婦という関係が公的に認められるとその人と一生添い遂げるという約束事ができます。また、夫婦になると子供を作ることが公的に認められます。人は強い恋愛関係を求めていますし、子供を作りたいという欲求も持っていますから、結婚することはこの社会では極めて有効です。社会的に絶対的な価値があるのです。上の挙げた不倫をする3つの理由は、結婚の拘束力を超えてしまいますから、結婚をしていても不倫をしています。

 

ドゥルーズガタリのアンチ・オイディプスに、欲望機械というものがあります。欲望機械とは言葉の意味のままで、人は欲望する機会である、という意味です。不倫は、もれなくこれに当てはまるでしょう。不倫は人間の欲望です。社会や文化は、人間の自然の営みをコントロールする力がありますので、不倫は社会にコントロールされることになります。でも、人間の不倫は欲望機械の振る舞いですから、それも自然です。不倫を認めるか認めないかは社会や文化しだいです。「不倫は文化」と言った人の言葉を思い出します。

結婚して安定しているのに何故不倫にはまるのか。社会通念と愛され欲求のはざまで。

人は何故結婚して働いていたり、子供がいて満たされていたりするのに、不倫をするのだろうか。そういう疑問を抱いたことってありませんか。私の周りにも不倫している人がいたりして、どうして不倫するのかと不思議に思ったりします。最近の子供は、親が上手くいっていない時、無理して夫婦生活を続けていくより離婚した方が良いという話もよく聞くし、熟年離婚みたいな話もずいぶん前に話題になって周知の事のように思うのに、多くの人は結婚生活を維持しながら不倫をしています。一体何故なんでしょうか。そこで、現代の日本社会の背景から、人々の個人的な問題について考えてみたいと思います。

 

昭和時代を振り返りますと、日本の社会通念として、大人になったら仕事について結婚をして子供を持って家族を持ち、そして、仕事と家族を運営していくという人生を生きていくというようなものがあるように思います。女性も、昭和時代と違って今は仕事をするという価値観が普通ですから、結婚したら仕事を辞めずに働くという選択をする、これも日本に形成した社会通念だと思います。このような社会通念は、子供のころから刷り込みがありますから、ある意味普通の家庭に育った人ほど、根底にあるのではないかと思います。大学に行かなければならない、仕事につかなければならない、結婚しなければならない、子供を作らなければならい。これらは、自発的、能動的というより、そうしなければならないという強力な固定観念になっていると思います。

 

また、結婚は昭和時代から自由が拡大して、お見合い恋愛から恋愛結婚に結婚の方法が解放されました。その結果、多くの人は若いときから、恋愛を積極的にするようになりました。自由恋愛は、人によっては容易な事で、好きな人と付き合う事で良い恋愛を育んでいきます。その結果、結婚に至る人もいます。別の人にとっては、自由恋愛は難しく、相手の事がいいなと思っても、好きというのが恥ずかしくても言えないとか、断られるのが怖くて言えないとか、そういう理由で積極的に恋愛できないという事があります。恋愛をしたいという欲求がないわけではないですから、相手に好きと言われてやっと恋愛が成立するという事があると思います。相手から愛されたいという強いニーズを抱えるケースもあります。愛されたいという承認欲求が強すぎると、自分からは積極的に好きと言えないという場合、常に承認欲求が抑圧されていますから、相手に迫られると愛されているという感覚が異常に高まって暴発して恋愛にはまり込むという事もあると思います。そのようなケースではたいていうまくいきません。

 

こういう状況を踏まえて、不倫に何故至るか考えてみましょう。仕事もしなければならない、結婚もしなければならない、子供も作らないといけない、でも、恋愛できないから、相手が見つからない。でも、男女ともに結婚、子供のニーズはありますから、適齢期がくればお互いのニーズが合致する人が多く出てきて、それで結婚できます。このような場合、たいてい仕事もしていますから、これもお互いに相手が仕事をしているという条件に適って結婚は促進されます。ですが、肝心の、恋愛感情が上手く満たされていません。仕事もできるし、結婚もして、子供も育てている。だから、周りからみるとちゃんとしている、立派な社会人に見えます。昭和時代から無意識に刷り込まれて求められていた社会通念を固く守ってきているのです。

ですが、自分の承認欲求は満たされていません。通念の中に、自由恋愛は刷り込まれていませんから、異常な愛され承認欲求を抱えています。これは実は非常に深刻な状態です。実際には、仕事や子育てを両立するのは大変な事です。その上で、夫婦関係は実はからっぽで、恋愛感情はないがしろ。これでは、夫婦関係を続けていても子供の教育にもよくありません。子供はよく見ています。それでも、仕事や家族の維持は絶対ですから、仕事も絶対に辞められませんし、離婚も絶対にできません。強い固定観念です。そして、恋愛はますます抑圧されていきます。でも、愛され欲求は高まっていますから、その機会ができたとき容易に不倫します。離婚する勇気も、夫婦で事態を変えるやる気もありませんから、家族は維持されて不倫を行われていきます。

 

日本の家族観、結婚観、仕事観を社会通念として刷り込まれたまま、その人生を歩むと、自分自身の気持ちや欲求を優先する事、大事にすることをできなくなります。そうやって現代の多くの人は不倫に陥るのだと思います。

意味や物語で人は生きられるか。プラグマティズムから考える。

出来ない事ってたくさんありますよね。でも、これまでそんなことやったことないし、自信がなくてできないと思う事ってありませんか。小さなころから自分はできないと自分で信じ込んだか、親に刷り込まれたか、出来ないという根拠も実は大して無いはずなのに、出来ないような気がする。または、出来ないという何らかの根拠があって、だからこれから先もできないと思ってしまう。遠い昔のことなのに。。。

 

世の中には、色んな意味や物語があって、人は意味や物語を生きる生き物です。宗教や神などを創ってきたのも、人に生きる意味を見出して、先の分からない未知の未来に進むためでもありました。それらを根拠にして人は生きてきたのです。しかし、そんな意味や物語が一体どれだけ本当に自分を支える根拠になりうるのでしょうか。

今や現代は、政治の世界での昔のようなイデオロギーを生きた時代ではないし、宗教や神の力もそんなに生きる根拠にはならなくなっています。それでも、意味や物語は自分たち人間の生きる原動力になってきたのです。

 

それでは、現在、世界を動かしている経済の仕組みからプラグマティズムの思想に基づいて、意味や物語について考えてみましょう。

 

現在、世の中を動かしている社会システムは、資本主義経済社会です。資本主義の経済は、シュムペーターの経済発展の理論を参考にすると、企業のイノベーションによると説明されています。イノベーションとは、これまでになかった商品を生み出す新しい創造のことです。資本主義では、資本を元手に新創造するわけですが、一般に資本は借金して借り入れて、イノベーションを起こして新商品を創造して利益を得て、そして、利子分も含めて資本家に返すというサイクルです。このサイクルによって、経済は発展していくわけです。

では、このイノベーションはどうやって起こるのでしょうか。実際、イノベーションが起こるかどうかはやってみないとわかりません。だから、すべてのビジネスが上手くいくとは限らないのです。その未知の商品に対して資本家から資本を借り入れるのです。

 

では、この起こるか起こらないかわからない未知のイノベーションはどうやって起こるのでしょうか。それは、人が起こすのです。この未知のイノベーションを、企業にいる社員が引き受けて労働することによって生み出しているのです。イノベーションとは人間による不確実な挑戦によるものです。これを企業が、「(仮に嘘でも)実現できるんだ」と引き受けて責任を持つことで、「それならば」という事で資本家や投資家がお金を出資するのです。この「引き受けて責任を持つ」という部分が、人の信念に支えられているのです。

 

プラグマティズムの思想は、19世紀の後半にアメリアで生まれたと言われています。プラグマティズムは、過去の歴史から地続きだったもの、現実や事実から、これから先何が起こるか分からない未知のものへの間を、「連続性」によって連結して現実にしていくというような思想です。科学的に根拠があるかないかは重要ではありません。ですが、物事には真理というものがあって、これを追求することで真理に達するものだと考えるのです。この真理に追い求めるにあたって信念がとても重要です。真理への信念を持つことによって現実化していく。そして、真理に到達する。これがプラグマティズムです。仕事やビジネスに当てはめて考えると、人の信念によって結果を出していくという意味になります。

 

20世紀のアメリカは、このプラグマティズムの思想が主流でした。このプラグマティズムの信念の思想によって、行き詰った旧大陸の西洋を乗り越えようとしたのです。実際、この思想は、当時の資本主義経済と相性が良く、ビジネスでは、この人々の信念によってイノベーションを起こす原動力になりえたのです。

 

今につながる資本主義経済の原動力は、企業で働く社員の信念に支えられたイノベーションによると言っても良いのです。ビジネスマインドには、この信念が含まれているはずです。プラグマティズムのマインドを持つことによってビジネスマンは新しいビジネスに挑戦し、イノベーションを起こし、新しい産業や新しい市場を開拓してきたのです。現在の資本主義経済のベースはこれに基づきます。つまり、人の信念は、未知に対して現実化する原動力なのです。

 

話は変わりますが、この仕組みは脳の仕組みと似ています。人間が何かを記憶するとき、学習するとき、繰り返し反復することで脳の神経細胞がその可塑性によって変化し、記憶付されます。野球の素振り1000回とか、習慣化も同じ仕組みです。人はできない事を、繰り返し繰り返し行って習慣にする事によって出来るようになります。人間は習慣を作ることによってできない未知の事を、現実にしていく方法を持っているのです。

 

このような事から、人にとって意味や物語は生きる上で役に立つのかという事ですが、十分役に立つのです。意味や物語とは、人が信念を持つことと似た意味です。むしろ、現代は、この意味や物語、信念に支えられて、ここまで来たのです。人にはドライブする力があります。それが意味や物語です。いかにして、この意味や物語を自分のものにできるか、人生はこの事にかかっています。実社会はそのように創られてきたのですから。根拠は重要ではないのです。現実化する力を支える信念こそ、意味や物語にこそ、人間が生きるために必要なのです。

人間社会の中で生きる。プログラム化されたものから脱プログラム化する。

人間は、社会のシステムの中で生きています。社会のルールや法にしたがって、社会的人間として、生きています。そのような社会のルールにしたがう事で、みんなで上手くやっていく事ができます。良い社会制度によって、病気になったら健康保険証をもって病院に行って比較的安い金額で治療を受けられるし、警察なども国家のルールに従って市民の生活を支えています。税金のシステムも、国民で税金を国に払う事によって国家を運営して、そこで働く公務員によって上手くシステムが回るようにしてくれています。社会システムはみんなの暮らしが良くなるように機能していて、その恩恵はとても大きいです。ですから、私たちは社会のルールに従っていきているのです。

 

昔は、国家ができた頃、統治者の権力によって一方的にルールを整備して、そのルールに従って生きていました。これを破ると厳しい処罰があったと思います。そのような統治システムは歴史とともに解体され、現在は一部の国を除いて民主制によって、市民一人一人が生きやすいように運営が為されています。ですが、もしこの統治が完全なもので、言い換えると、この統治のための法やルールが完全にプログラム化されたもので、その国に住む市民が完ぺきにそのプログラムを守らないといけない場合、そこには自由は感じられません。生きた心地がしません。なので、いくら社会システムの恩恵が大きいからと言っても、そのルールは上から押し付けられるものでは絶対にダメで、あくまで市民に自由度を持って守られる範囲のルールでないといけないと思います。ルールや法は、人間社会が作った、人が生きるためのプログラムですが、そのプログラム化されたものを完ぺきに従って生きるだけでは、人は生命として生きているとは言えないのです。

 

何故人間は、人間社会を構築して運営していく中でプログラムを作り、そして、そのプログラムの中で生きていく事ができないのでしょうか。プログラムとは、人間が歴史の中で、より良いものにルールを変更して改善してきて作ってきたもので、例えば現代では、民主制や国民主権のしくみなどで作っていますが、それが今の時点で歴史的にも最良のものと思われるのに、それでも、このプログラムの中に押し込められて生きていく事が出来ません。必ずこのプログラムは、未来では書き換えられているはずです。

 

そもそも、人間を含む生命の営みは、プログラム化して、そのプログラムを書き換えて進化するものなのです。人間は他の種と同じくDNAの遺伝情報を持っていて、その遺伝のプログラムにしたがって生きています。人間は、母親のお腹の中で胎児として誕生した後も、脳は発達していきますが、その発達は遺伝子にプログラムされていて、脳は内側から外側に向かって成長していきます。基本的に、人間はプログラム化されていて、そのスイッチが入るとプログラムにしたがって成長していくのです。ですが、成長過程で周りの人間や物理的な環境の影響によって変化していきます。プログラム化されたものにしたがって発達していくともにそれは完ぺきではなく、周りの環境の影響を受ける余地があるのです。この余地があるかないかが生命性に関わってきます。生命性とは、プログラム化されたものの上に、プログラム化されていない変化をしていく事のことです。この余地には自由があります。プログラム化されたものの中から逃れる自由があります。この自由こそは生命性だと思うのです。

 

植物も生命だと思いますが、これらの人間と同様に遺伝情報を持っています。植物は進化の過程で、太陽のもとでの地球の自転や自然環境の影響のもとで、一年を通した季節的変化をします。植物の季節的変化は確かにプログラム化されていて、毎年同じサイクルを繰り返しますが、一つ一つの植物は全く同じサイクルを繰り返しているわけではないし、環境の影響を受けて生きています。進化論でいうところの突然変異によって新しい種の植物は生まれてきましたし、そもそも、花などの植物は蜂などの昆虫の受粉の仕組みがなければ繁殖しないものもいます。明らかに植物自身の遺伝情報に基づく成長とは全く関係なく、昆虫という別の種の営みと関係することで種が遠くに運ばれて繁栄していくという、環境による影響を前提としているわけです。このような環境要因もその種の進化の過程としてプログラムとして取り込んでいきますが、突然変異や環境の変化は常にあり、プログラム化してもすぐに進化していきます。

 

この話は、先ほどの社会の法やルールによるプログラム化と脱プログラム化の話と同じです。このプログラム化と脱プログラム化は生命の営みであり、その間にあるものこそが自由なのです。生命性とは自由の事で、自由の営みによって生命は生命性を維持しているのです。

 

人は、他の生命と同じく、プログラム化された中を生きながらプログラムを変更して生きる生き物です。だから、社会のルールに従って生きていく事は上手くやっていく上で大事ですが、自分たち人間は生命ですから、そのルールに縛られず、自由を求めて生きて言ってよいのだと思います。

コロナ禍で社会システムがインターネット社会に移行する

今年は、世界中の人々にとって大変な年になってしまいました。新型コロナの影響で、多くの人が苦しみ、亡くなり、経済も停滞してしまいました。ウィルスが人から人へ感染してしまうので、物理的に密集する事を、避けないといけなくなりました。また、多くの人が集まるような場所にも行きにくくなってしまいました。朝と夕方の密な電車なども利用しづらいですし、飛行機なども狭い空間に数時間密集した状態になりますから、特に良くないとされています。航空会社は大打撃です。都会のデパートなどにも人は集まりにくくなりました。人が密集するからです。レストランなどは人が密集する上に、マスクを外しますから、感染する条件に当てはまります。だから、外食産業も大打撃です。その意味では、学校や会社も人が集まりますから、当然避けた方が良いわけです。そのようなわけで、社会はこのコロナ禍の影響によって、物理的に集まりにくい社会になってきているわけです。

 

一方、会社などでは在宅勤務を推し進めてZoom会議で打ち合わせやコミュニーションをとるなど、工夫がはじまっています。学校の授業もそのようなスタイルです。ゲーム業界やIT業界は、このコロナ禍にあってそれほど業績を落としていません。上がっている会社もあります。その意味で、経済社会は人と物理的に集まらなくても、原理的には対応しうるわけです。インターネットを利用したシステムをもっと推し進めれば経済はそれで回せるようにできるわけですから。また、元々スマホは多くの人が持っていますから、人は直接会わなくてもコミュニケーションをとる機会は持っているわけです。世の中は、かなり経済に依存していますから、経済が潤っていれば、人間社会は営んでいけるわけです。

 

ですが、人間は物理的に身体を持っていますから、完全にインターネット上で社会生活をすることはできません。その意味では、身体から成り立つ人間は、食料が必要です。また身体はすぐ調子が悪くなりますから、病院には行かないといけません。身体が物質からできている以上、「モノ」は必要です。インターネット上だけでの暮らし、社会生活はありません。ただ、多くの人との物理的接触を無くしていく必要があるわけです。人との物理的接触さえ抑えれば、ウィルスは感染しませんから、社会システムを維持できます。

 

そう考えると、多くの人が物理的に集まらない社会システムは、案外やっていけるのではないでしょうか。人はもともと、そんなに多くの人と物理的接触が必要な生き物だったのでしょうか。そんなに、みんなで一か所に密集してまで集まりたい生き物だったのでしょうか。

 

今の時代、人は生まれてから6年ほど経って義務教育で小学校、中学校と9年間学校に通います。保育園や幼稚園を入れると、それよりも早い段階で大勢の人で集まる社会システムの人生が始まります。そして、高校、大学と進学したのち、就職などで、会社に勤め始めます。そこにも、人はたくさんいて、密集状態を経験します。少なくともこれらの過程では、望んで密集しているようには思えません。そういう仕組みになっているから密集状態を経験しているだけです。密集しないならしなくても良いように思います。つまり、大勢の人が集まる理由は、集まりたくて集まっているのではなく、必要だったから集まっているだけです。

 

これからは、学校、会社などは、インターネットを介したシステムに変更できます。産まれてからしばらく親の元にいて、それからインターネットを接続するシステムに参加して、授業を受け、会社に勤めるのです。しかし、気になるのはそのようにインターネットを介したコミュニケーションばかりとっていると、人とのコミュニケーションがインターネットを介した能力しか発達しないのではないかという事です。人が集団となって一緒にいる時に感じ取る感覚が育たなくなるではないだろうかという疑問です。その意味では、ますます、親との物理的に直接の関係性、コミュニケーションが重要で、ほぼそこでしか物理的なコミュケーションが体験できないのでないかと不安になります。実際、現代は家族間の関係も希薄になってきていますから、家族内での親と子の密なコミュニケーションがとても重要になってきて、多くの人々は実はこの不安感ははじめてというわけではないと思います。コロナ禍が起こる前から、社会の人々は、物理的に集まらない社会を経験しはじめているのです。そして、一部の人はインターネットを活用して積極的に適応できていたりします。

 

このように考えてきますと、今年のコロナ禍を境に、社会はインターネットを中心とする社会に大きく変わっていくのではないかと予想されます。実際、企業などはこの状況に適応してITを積極活用して新たな産業構造を作り出そうとしていますし、学校なども適応してきています。基本的に、国家運営は資本主義経済システムを重んじていますから、それに合わせて、つまりIT社会への変化に合わせて政策も変えていくだけです。内閣の大臣に、新たに、デジタル改革担当大臣という大臣が配置されているのを見ればわかります。経済システム、社会システムが大きく、インターネット社会に変更されていくのです。

 

あらためて、人は物理的に密集して生きていかなくてもいいのでしょうか。人は多くの人と出会って、人間関係を作って、恋人や結婚相手を見つけて、子を作って繁栄しています。物理的接触が減るとその機会が減り、人類の人口は激減するのではないだろうかと疑問が出てきます。ですが、上で少し話しましたが、人はそもそもそんなに多くに人と密になっていたいのでしょうか。最近、HSP(Highly Sensitive Person)や内向型人間というワードが注目されるようになって、そもそもそんなに密でなくても良かったのではないかと思ったりもします。むしろ密になり過ぎていたのではないか。在宅勤務で喜んでいる人も多いのではないでしょうか。学校でのZoom授業を楽しんでいる人も多いのではないでしょうか。

 

これから、社会システムは物理的に集まる社会システムから、インターネットの社会システムに移行していくのではないでしょうか。人と直接会う機会は抑制される社会です。コミュニケーンは直接会ってやり取りするスタイルから、インターネットを介したコミュニケーションに変化するのです。そもそも人々は文書でのやり取りは長い間メールなどやってきていますし、出来ないとは思いません。実際、科学技術の発展は、アバターVR、ARの技術が進んできていますから、直接会わなくても、直接会ったような体験をすることは可能になる時代はあり得ます。

 

人は物理的に人と会う時、直接会う事を強制しないインターネット社会システムの中では、積極的に、能動的な気持ちで初めて為されることになるでしょう。この人と会いたい。話がしない。そういう時だけ人と会って、それ以外はインターネットを介したコミュニケーションで済むわけです。結婚相手が親から決められていた時代から自由恋愛に変わるのと似ています。人間関係の自由です。

 

身体からなる人間が、物理的に集まることで獲得していた感覚器官の活動やコミュニケーション能力は、インターネットを介したコミュニケーションに適応した能力に変わっていくのかもしれません。そして、社会や文化が、物理的に集まる社会、地理的な意味で地域に根差していたような文化から、インターネット文化に変わっていくのです。国家などの地理的な文化背景の色合いが、インターネットの文化の色合いに変化していきます。それは一体どのような社会、文化なのでしょうか。でも、人間はおそらくどんな社会に対しても適応していくように思います。

人間関係を良くする方法。好きな人を中心に関係性を構築していく。

会社でも、プライベートでも、なかなか人間関係というのは難しいですよね。人間関係に関する悩みやストレスは尽きないものだと思います。特に会社など、お金を稼いて生きていく為には、人間関係を構築していく事が欠かせません。好きな人もいるけど、好きでない人もいる。でも仕事だからそういう事に関係なく、人間関係を続けていかなければならない。そう思いますよね。仕事というのは、人間の生存がかかっています。人間は生存のために生きざるをえないので、そのために人間関係を嫌でも維持しなければなりません。

 

でも、そんな風に、生きるため、生存するため、を優先して人間関係を続けていても、だんだん疲弊してくると思います。そして、本当に生きていくのがつらくなって、会社で働いていく事が難しくなったり、会社を辞めざるをえなくなったりします。もしくは、会社は辞めないにしても会社にしがみついていくことになって、うつ病のようになって会社に属することになったりします。そんな状態では、社内では、給料はもらっているかもしれませんが、生存競争には負けているような状態になってしまいますし、人間関係も良くないですから、働く事どころか、生きる事も辛くなってきます。だから、やはり、仕事をしていくため、生存していくために、人間関係はどんな関係でも維持しなければならないというのは、良い戦略とは思えません。

 

それよりも、人間関係をより良くして、働いていく方がもっと大事だと思います。今の時代、昔より働く事は大変ではなくなっていますし、資本主義が進んでいて、独立して個人で起業して働いている人もたくさんいます。以前より明らかに仕事はしやすくなっています。それよりも、社員がたくさんいる会社の場合は、人間関係が良好の方が全体の生産性が上がって、仕事の効率も良い時代になっています。ですから、やはり、自分にとって人間関係が最も良くなるようにやっていくのが、最も良い方法だと思います。

 

人間関係を良くする方法は、自分にとって良いと思う人、好きな人、気が合う人、大事だと思う人、尊敬している人と、関係していく事だと思います。恋愛と同じです。好きな人と一緒に話したり、仕事をしたりすることは、自分を元気にします。そして、そういう人たちを大事にすることです。それは見返りを求めてとか、そういうのではなく、相手の事を想って大事にするという事です。恋人や家族と同じです。そういう人間関係を中心にしていく事で、間違いなく、自分にとって心地よい状態になっていきます。

 

そして、好きでない人とは関係していかない事です。仕事だからそれはできないと思うかもしれませんが、今はそういう時代ではありません。会社の全体の効率を考えると、好きではない人、大事だと思わない人と一緒にいたり、仕事をしたりしても、全然生産的ではないし、自分自身疲弊していきます。そして、相手にとっても良くない事です。好きでない人に対しては、どうしても大事にできないのが人間ですから、尊敬していないような相手に、嘘をついて良好な関係のふりを続けても何の意味もありません。それより、相手も悪い状態になってしまいます。だから、好きではない人、大事に思っていない人とは、距離をとって、関係していかないようにした方が良いです。それがお互いの為です。無駄な気遣いは、今の時代むしろ相手を尊重していないのに尊重しているふりをしているという意味で、失礼な態度と言えるかもしれません。

 

今は無理に人間関係を維持する時代ではありません。良くない人間関係を続けたくもないのに続けていくことは、お互いに害でしかないです。そういう事は勇気をもってやめて、自分にとって大事な人、好きな人と、関係性を構築していくように努めていきましょう。そうすれば、良い人間関係の輪が広がっていきますから、結果的に、他の人にとっても良いのです。そうやって、大事な人、好きな人を中心に、関係性を構築していく事を大事だと思います。