毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

何故寂しいと感じてしまうのだろうか。

みなさん、寂しいと感じたことはありませんか。普通ありますよね。人間は寂しさを感じる生き物なので、寂しさを感じない人はいないと思います。また、時には寂しさを感じますが、またある時は寂しさを感じない時もあると思います。四六時中寂しいと感じるわけでないというのはあると思います。

たまに、自閉症っぽい人やオタクっぽい人で、人間関係にはあまり関心がなさそうな人でも、寂しさを感じるという事があると思います。これはどうしてなんでしょうか。寂しさとはどこからやってくるのだろうかと考えると、おそらく人間関係上、他人との関係性の中で出てくるのはないかと思います。でも、他人との関係性より、自分や人間以外の対象に強く関心を持っているのになぜさみしく感じるのか、不思議に思ったりします。

そこで、そのような観点から、何故人は寂しいと感じてしまうのか、考えていきたいと思います。

 

例えば、人間関係が好きな外向的な人の事を考えてみましょう。外向的な人は何かあればいつも人と会おうとして話をしようとしますから、寂しさをあまり感じていないのではないかと思ったりします。しかし、外向的な人たちも、寂しさを感じていると思います。いくら大勢の人と、多くの時間を使って、一緒にいても、一人になった時異常に寂しく感じられたりすると思います。この事は、人は大勢の人と会って一緒に過ごしたり、話をしたりするだけでは、寂しさを感じないようにするには長持ちしないという事を言っていると思います。特に、自分の寂しさを紛らわせたいという理由で人といくらあっても、寂しさを紛らわせる効果は低いという事です。他人と接するとき、ただ自分の寂しさを紛らわせるだけでは、その後自分の心の中にそれまでに会っていた人たちの事が残っていなければ、心の中にはだれもいないので、すぐに寂しさを感じます。それは自分が寂しくならないように、ただ他人を利用しようとしているだけという事です。つまり、現実的に人と会っても会っているときは寂しさを紛らわせることはできますが、心の中に他人がいなければ、その寂しさは解消されないという事です。

 

一方、多くの人間関係を好まず、一人の時間が好きな人がいます。内向的な人などはそうだと思います。では、そのようないつも一人でいる人たちが、いつもさみしい思いをしているかというとそうとは限りません。そういう人でも、多くないながらも少しの知り合いはいたりします。一人が好きだからと言って人間関係が皆無というわけではありません。少しの友人や、家族、恋人がいたりします。だから、心の中にいつも他人がいます。だから、その人たちの事を想ったり心配したりしていると、寂しさはあまり感じずに済みます。つまり、心の中に他人がいれば、その寂しさは解消されるという事です。さらに言うと、心の中に、大事な人、好きな人がいると寂しくないという事です。

 

このように考えていきますと、寂しさとは何かという事が見えてきます。寂しいとは、心の中に大事に想う人、好きな人がいないときに生じる感情という事になります。他の誰かを、能動的に、自然と、大事に想う気持ちがあれば、寂しくないという事です。いつでも心の中で大事な人を思い出したりして、心を温めたり安心したりできるのです。時には心配になったりもします。そう過ごしていると寂しさを感じることはあまりありません。つまり、人を愛していると寂しくは感じない、という事になると思います。

 

では、どうやったら、寂しさを解消できるでしょうか。それは、大事に想う人、好きな人の事をしっかり思い出すことだと思います。寂しいとき、きっとそのような大事な人の事を忘れていると思います。だから、大事な人をいつでも思い出して、そして、その大事な人たちをもっと積極的に大事にすることだと思います。人の数はそんなに問題ではありません。積極的に人を愛する、ということだと思います。付け加えると、最近ペットを飼っている人が増えていると思いますが、動物との間でも、人間と同じように愛する事が可能だと思います。だから、犬や猫を大事にしている人は、あまり寂しくないのではないかと思います。

 

もうひとつ、大事に想う人、好きな人がいない、という事がありうると思います。人間関係に関心がないために、大事な人が誰か思いつかないという事があるかもしれません。気にかけてくれる人とか、大事にしてくれる人、話に付き合ってくれる人はいるかもしれませんが、自分が相手を関心がないために自分自身が相手を大事に想っていないという事があると思います。そういうときは、そのような自分を強く自覚する事が大事だと思います。そして、本当に自分にとって大事な人はだれか、好きな人はだれか、関心のある人はだれか、思い出そうとしてみることです。そして、もし一人でも二人でもいたら、そのような人たちの事を大事に想う事だと思います。上から目線ではなく、誠実に大事にしようとする心が大事だと思います。これは、すぐにはできない事かもしれません。それでも、自分の気持ちを大事にして育てていく事は大事です。

 

人は何故寂しいと感じてしまうのだろうか。それは、人に対する関心がない、もしくは下がっているからです。そして、心の中に大事に想う人や好きな人がいないからです。結局寂しさは人間関係から生じますが、もう一歩進めて考えれば、人間関係を通して、自分の心の中から生じるものです。人に対する関心のなさが原因で、人に対する関心を自分の内部で育てていない事から生じるものだと思います。それが、人が寂しさを感じる理由だと思います。

仕事も人生も人間関係も、「好き」を中心にやっていく

仕事でも、人生でも、人間関係でも、何事においても、どうやったらうまくやっていけるのだろうか。どうやったら充実するだのろうか。働いたり、生きていたりすると、ストレスが多くて、疲れていて、そういう風に悩むことってありますよね。

やっぱりそういう時って、好きな事をやっている事がとても大事だと思うんです。今回は、そういう事について考えてみたいと思います。

 

仕事をやっていく時、好きな事を中心にやっていくようにする事が大事だと思います。仕事ですから、自分の好きな事だけやるという事は確かに難しいです。でも、それでも出来る限りその中でも好きな事を見つけてやれるようにしていくべきです。それは、恋愛と同じだと思います。好きな人と付き合うとき、楽しいからずっと付き合っていられます。でも、好きでなかったら一緒にいるのがつらくなってくると思います。そのような関係は長続きしませんし、長続きする必要すらありません。お互いに疲れてだめになっていきます。

その意味では、人間関係も同じです。恋愛のように、好きな人と付き合うように、人間関係を構築していくのが良いと思います。あらゆる人間関係が、恋愛のように好きな人と関係するようにしていけば、人間関係をより良いものしたいと思うようになりますし、日々も楽しくなります。

そういう意味で、人生全般そうだと言えます。好きなものを探して、好きな事をやるようにしていく事が大事だと思います。そうやって、好きな仕事、好きな人間関係、好きな事、好きなもの、に囲まれて生きていくと、凄く自分の人生も周りの人も充実していきます。

 

そして、その好きな関係、好きな事を、継続していく事が大事です。人間は習慣にして継続していく事でそのように変わっていく生き物ですから、好きな人間関係や好きな事を継続していくと、より習慣が身についていくように好きな事や関係は強化されていきますから。充実感が安定化していきます。そうやって、人生全般が安定的に良い状態になっていきます。

 

逆に言うと、好きでない関係を継続することは良くない事です。即刻その関係を辞めるべきです。好きでない事を続けていたら慣れて好きになるとかいうのは違います。好きでない事を継続していくと、それが定着していって嫌いな事が自分の中で強化されてきます。そうすると、苦しみやストレスが蓄積してきます。だから、嫌な事、嫌いな事はすぐにやめるようにしましょう。

これは人間関係も同じです。好きでない人との人間関係は減らしていきましょう。好きでない人間関係を継続しても、より良くなることはありません。むしろどんどん嫌いが強化されて苦しくなって、いずれ大きな問題になります。相手に申し訳ないとか、相手に悪いとか、相手がかわいそうとか、そのように思う事はあまり意味がありません、自分に対してだけでなく、相手に対しても何も役に立たないどころか、害にしかならないです。関係は減らして無くしていく事で、自分だけでなく、相手も幸せになるチャンスです。

 

人間は、習慣の中で生きる生き物ですから、好きな事、人間関係を習慣にして継続していく事が凄く望ましく、同じく嫌い事、嫌い人間関係を習慣にしない事もすごく望ましいことです。

 

好きな事を続けていけば自ずと充実して楽しくなってきますから、さらに、好きな事と出会いやすくなって、ますます充実していきます。そのようにして、好きな事を中心に据えて色んな事をやっていく事を心がけていく事をお勧めしたいと思います。

辛くて苦しい時。コップの水が溢れないようにする方法。

仕事が上手くいかない。子育てで苦しんでいる。人間関係で悩んでいる。

抱えている問題が大変すぎて、辛くて苦しい。ストレスが耐えられなくて、でもどうしたらいいか分からない。そういう事ってありますよね。こういう時、抜本的な解決方法が欲しいですよね。でも、だいたいそういう時って、いっぺんに解決する方法ってないんですよね。人間は、そういう風にはできていないんだと思います。大事なことは、コップの水が溢れないようにする事だと思うんです。

 

人間というのは、同時並行でいろんな事を抱えながら、それぞれの問題を少しずつ解決しながら前に進んでいくものなんです。そして、ストレスも一個ではなくて、いろんな種類のストレスを抱えながら、どのストレスも完全には解消しないながらも軽減しながら、やっていくものなんです。だから、苦しくてそれでもそれを解決して前進しようとする時、最も重要な問題を一つ解決しようとするのではなく、小さなことから手をつけていくのがいいと思います。

 

解決方法のひとつは、仲の良い誰かと話をして、問題を共有してもらったり、客観性を取り戻したりして、慰めてもらったり、心を落ち着かせたりすることです。話ができる親がいるなら親でもいいし、恋人でも配偶者でももちろんいいし、最近は会ってないけど以前は仲の良かった友人でもいいと思います。意外と、話を聞いてもらうと、いかに自分が大変な状態になっているかに気づかされたり、自己肯定感を回復出来たりして、ストレスが軽減するものです。そうやって、コップの水が溢れない程度でストレスを下げることは大事です。

 

体のケアや睡眠不足を解消させるとかも有効です。ストレスの耐性は、身体の調子が強く影響します。ストレスの原因となる悩みや問題と、身体の疲れや睡眠不足は関係ないように思うかもしれませんが、人間は身体からできていて、ストレスも身体とつながっています。だから、身体のケアは確実にストレスを軽減します。ぜひ、身体を労ってください。

 

上で言ったように、問題はひとつではありません。小さな問題が重なっているはずです。だから、例えば10個問題があったら、最も軽そうな問題をひとつ手をつけてください。問題が10個あるのを9個にできたら、それだけでも効果はあるはずです。コップの水を溢れないようにすることは本当に有効です。いっぺんに全部の問題を解決しようとせず、できる問題から解決していきましょう。

 

そして、もし時間や余裕があったら、問題について、じっくり考えてみてください。自分と深く向き合って、いったい何が問題なのか、何がそんなに自分を苦しめているのか、本質な問題は何なのか。こういう苦しい時にこそ問題にしっかり向き合う事は、自分がどういう事を問題として抱えやすいのか、自分を知るいい機会になります。辛く苦しい時に、自分にしっかりコミットするのは確かに大変なことですけど、もし自分の根本問題を発見できたら、今後の対処の仕方にとても役に立ちます。もし可能なら、取り組んでみてください。

 

そういうわけで、辛くて苦しい時は、大きな問題に向き合っていっぺんに解決しようとしないでください。大事なことはコップの水を溢れないようにすることです。コップの水を溢れないようにすることは、人間の方法です。問題やストレスがゼロにする事は無理ですし、アプローチとしては間違えています。ほとんどの場合、たくさんの小さな問題を抱えています。だから、全てを解決しようとせず、小さなことから手をつけていきましょう。

働き続けられる理由は2つ。「愛」と「損得」について。

会社で働き続けるのが大変と感じているみなさん。私も大変だと感じています。何度も辞めたいと思うことはありましたが、結局辞める決断ができず、というより、本気で辞めるという決意に至ることがおそらくなく、ここまで来た、という感じです。

色々と考えると、会社を辞められない理由が2つあるように思います。それは、「愛」と「損得」です。実際この2つが十分でなくなると、働き続けることが大変になってくるように思います。そこで、この2つの観点から、会社で働く理由について考えてみたいと思います。

 

まず、「愛」とは何かです。ここでは、愛とは人間関係上の事です。会社では、人間関係が大きな要素になると思います。人間関係が良好だと働きやすいですが、悪いと働きにくくなります。なので、この人間関係を、「愛」に基づいて構築していけばよいのではないかという事です。「愛」とは、例えば、恋愛です。恋愛を知っている人なら分かると思いますが、恋愛というのは、好きな人と付き合いたいと思う時、その人に対する恋愛感情は芽生えていると思います。この恋愛感情に基づいて、会社内の人間関係を構築していけば良いという事です。もし、その人の事が好きではない時、恋愛感情がありませんから、無理して付き合う事はしないと思います。これと同じように、社内で、その人の事が好きではない時、その人は人間関係をあまり構築しない方が良いという事です。愛とは、恋愛の他、家族愛、友愛、師弟愛、など色んな種類の愛があると思います。どれも同じで、相手を大事に思う、相手と話をしたい、相手を尊敬している、相手を心配する、などの愛の感情を基準にして、社内で人間関係を構築できるかどうかという事です。

 

では、損得ですが、これは言うまでもなく、働いていて、損か得か、それだけです。働いていて出世できそうかどうかとか、好きな仕事ができそうかどうかとか、給料がたくさんもらえそうかどうかとか、要は自分にとって働いて得を感じられるかどうかです。出世できそうにもない、仕事が面白くない、つまらない、給料に満足できない、こんな事ばかりだと、働き続けるには困難です。働いていれば、何かを学べて成長できそう、とかでもいいんです。得を少しでも感じられれば、働く続ける理由になります。

 

このような意味で、「愛」か「損得」か、もしくはその両方が満たされていれば、会社を辞めずに働き続けることが可能だと思います。得は全然ないけど、会社への愛があるから何とか働けるという事もあるかもしれません。その場合、たいてい、会社で勤めていた間での人間関係に愛がある経験があったからだと思います。社内での愛ある人間関係があれば、それが企業愛に転換していくことはあると思います。自分自身のアイデンティティを企業が支えるという、ナショナリズムと同じ原理で企業愛は根付くものです。そのような愛も含めて、愛か損得か、どちらかがあれば、働き続ける理由、辞めずに働き続けられる支えになると思います。

 

では、愛も損得も感じられない場合はどうでしょう。これは辞めるかどうかを考える時かもしれません。でなければ、働き続けることがあまりにもつらいはずです。その会社で働いている喜びがあまりにもありません。

最近、景気もあまり良いわけでもないので、得を感じづらくなっているかもしれません。また、人間関係が希薄化してきていて、愛のない会社勤めになっているかもしれません。実際、愛も損得も感じられず、働いている人は少なくないでしょう。働き続けるためには、この2つを大事にしてみてください。それらを大事にしていけば、働くのは楽になっていくかもしれません。

何故、仕事はこんなに大変なのか。資本主義経済と進化論の観点で考える。

会社で働いている皆さん、大変ですよね。って言うまでもない話ですが、改めて、なんでこんなに大変なのか、という事について考えてみたいと思います。

 

現代は、基本的に資本主義社会を中心に世界が回っています。ある意味、その恩恵を受けて人々は自由をそれなりに享受し、社会も豊かに繁栄しています。ですが、その豊かさを維持していく為には人々が働き続ける事は止められません。基本的には世界の経済は右肩上がりで成長する方向に進んでいますが、世界の人々は必死にこの右肩上がりの成長を維持しようと頑張っています。一体なぜこんなに必死に働かないといけないのでしょうか。

 

そこで、進化論という観点から、この資本主義社会で、企業で働く社員が何故大変なのかという事について説明してみたいと思います。

 

進化論とはなんでしょうか。人間をはじめとするあらゆる種は、進化論にしたがって繁栄してきました。自然選択説という概念がありますが、種の集団がある場合、種が全く同じ種類で構成されている場合は、その種はずっと繁栄を続けていきますが、必ずほんのわずか突然変異が現れます。ほとんどの場合、その突然変異は大多数の通常の種の中で上手く適応できず、そのまま淘汰されてしまいます。しかし、ある時その突然変異が通常の種より何かしら優位な点があって生き残るだけで適応力を持つ場合、ルールが変更されます。突然変異がその集団の中でより強く適応力を持って繁栄していきます。場合によっては通常の種はこのルールの変更に適応できずに淘汰されてしまいます。このようにして、新しい種が現れるわけです。これが進化論です。

 

人間に注目しますと、人間という種も他の種と同じように、進化論の歴史の中にいます。地球に存在する種は基本的にすべてこの進化論の歴史の中にいます。人間自身、進化論の仕組みを持っているわけです。人間は、進化論に基づいて人間活動を営んでいます。常に、自分自身が進化する仕組みをもって生活をしています。この人間の進化論的活動によって人間の社会も進化論の影響を受けます。

 

現代の社会は、資本主義経済社会です。資本主義経済社会を支えているのは、人間の経済活動です。そして、人間の経済活動を動力とする企業体です。企業体が、資本主義社会システムを成り立たせています。企業は、常にイノベーションを求められています。イノベーションこそ、進化論でいうところの突然変異です。イノベーションによりルールが変更されます。このルール変更により、イノベーションを起こした企業が反映するのと同時に、この変化についていけない企業は衰退し、廃業に追い込まれます。アマゾンが物流のしくみにイノベーションを引き起こしたため、世界の物流の仕組みは刷新されました。同時に、窮地に陥った企業は数多くあったはずです。資本主義経済社会の中では、常に企業は自然選択説の影響を受けているのです。企業体を支えている動力は、言うまでもなく人間の経済活動ですから、実際には企業内の社員によるイノベーションが企業の存続の命運を握っているのです。

 

何故、会社で働いている社員は仕事が大変なのか。言うまでもありません。自分たちの属している企業が進化論の仕組みの中で自然選択説の脅威に常に晒されているのです。大変に決まっています。進化論は地球のすべての生命体が持っている仕組みです。人間の活動も、社会も、資本主義経済社会も同じく進化論の仕組みを持っているのです。その事を理解して働いていた方が、大変さを受け入れられるのではないかと思います。

現代は何故生きづらいのか。生命性の定義から考える。

何故人は生きづらさを感じるのでしょうか。日本社会は、長い間年間の自殺者数は3万人程もいます。1世紀前のように戦争が差し迫った時代でもなく、日本は経済的にも豊かな社会です。明らかに、生きやすい社会になっているはずです、にもかかわらず、多くの人が生きづらさを感じて生きていると思います。
この事について、「生命性」という観点から考えていたいと思います。

生命性を考えるとき、生命の最もシンプルなものとして、最小単位である細胞を生命の定義として考えたいと思います。細胞は、水の中にあってはじめて存在できます。そして、水の中で、細胞膜に囲まれた構造を持っています。つまり、水という環境である外部と、細胞という内部と、細胞を保持するための細胞と水の境界である細胞膜の三層構造になっています。そして、細胞膜は単なる境界ではなく、物質や情報のやり取りをしています。この細胞膜を介したコミュニケーションがなければ、生命性は保たれません。これが、細胞から考える生命性の定義です。基本的に、細胞より高次の物はすべて生命性を持っていると言えるでしょう。

こう生命性を考えたとき、では、人間はどうでしょう。人間は言うまでもなく生命ですが、この定義で考えてみましょう。特にここでは、外部を人間社会と考えます。外部に人間社会があって、自分という人間が存在しています。人間は常に、人間社会の中で、コミュニケーションをとって生きています。人間関係の中で、関係性を維持しながら生きているのです。

では、最初の問いですが、何故生きづらさを感じるのでしょうか。もし、周りの人間関係や人間社会から完全に孤立してしまった場合、境界を介したコミュニケーションはない状態です。この場合、人間社会の中で、生きてゆけなくなってしまいます。一方、周りの人間関係とのコミュケーションをとり過ぎた場合、自分と周りの他者との境界線を失って、自分自身を見失ってしまいます。これも、生きづらさの原因になってしまいます。ですから、人間社会の中では、孤立しすぎず、関係し過ぎず、ちょうどよいバランスを持った自分に合う関係性を維持することがとても大事です。

このように考えると、21世紀の現代では、生きづらさを抱えている人は多いわけですが、それは何故なんでしょうか。「つながり」という言葉をよく聞きますが、確かにそれは大事でしょう。でも、つながり過ぎるという問題もあると思います。つながり過ぎると、周りの人に対して関係し過ぎてしまって、自分自身をどう保ってよいか分からなくなってしまいます。特に現代は、インターネットがあって、人や社会の情報は過度に入ってきます。メディアは、間接的に、人と人とを結びつけますから、メディアの影響が大きくなると、想像以上に、人間社会との関係性は高まります。一見誰とも接していないようで、実はメディアという環境の中に生きていると、間接的にでも、人と関わっている事になります。周りの生き方を見て、「自分はどのように生きていけばいいんだろう」、「自分はこのような生き方で良いのだろうか」と自分の生き方に疑問が突き付けられます。そうすると、「自分はこう生きるんだ!」とか「自分は自分。人は人」とか、強く自分の生き方を保っていないと自分の生き方に不安になります。このようにして、生きていくという事に対して、メディアも含めた周りの人との過剰な関係性によって不安を感じやすくなります。

現代は、人間と人間社会の関係性において、自分を見失いやすい時代だと思います。メディアの影響によって、物理的に孤立していたとしても、環境の影響を受けます。HSP(Highly Sensitive Person)や内向型などのワードが注目を集めているのは、関係性が過剰な今の時代だからこそです。
この「生命性」という観点から、人間をいかに生命として保って生きていくのか。とても役に立つ考え方だと思います。自分が思っているより、関係性は過剰な時代です。自分自身をしっかり保持できるように、上手くバランスを意識して生きていきたいと思います。

メディアの力。誹謗中傷や匿名の問題。

最近、「誹謗中傷」というワードが注目されています。テレビなどで活躍していたタレントが誹謗中傷に耐え切れず自殺するという出来事があったことが1つ言えると思います。誹謗中傷の発言の多くは、ツイッターなどでのSNS上での匿名な人たちから為されるものです。よく匿名でのネット発言は無責任な発言になるから良くないんだと非難されることもあります。なぜ、誹謗中傷のような事が起こってしまうのか。そして、匿名を禁止することが誹謗中傷を止めることができると思われるのだろうか。

 

テレビなどのメディアで仕事として活躍している芸能人やタレントが、テレビを通して一言コメントしたり、また、自らツイッターなどでつぶやいたりすることで、世間はそのコメント、ワード次第では、批判や避難を引き起こします。それは何故なんでしょうか。メディアとは一体何なのか。まず、この点を考えてみましょう。

 

メディアとは、情報であり、言葉です。人と人の間で、意思疎通やコミュニケーションで使われる媒体です。テレビからタレントが発言するコメントは視聴者に届きますから、テレビはメディアと言えます。また、ツイッターなどのSNSのつぶやきは、インターネットを媒介してSNSを利用している人たちに届きますから、SNSもメディアです。テレビの場合は、方向性はテレビから視聴者への一方方向で、SNSは、参加すれば誰でも発言が届けられるし、発言もできるという意味で、方向性は双方向です。インターネットがその方向性を可能にしていて、実際には、SNSは直接双方向に発言を届けあっているわけではなく、インターネット上にアクセスすることで発言を見に行くしくみになっています。インターネットこそがメディアの中心的機能を持っています。

有名人がメディアを介して何かを発言したとき、言葉でなくても、表現したものを発信したとき、メディアにアクセスしている数多くの人々は、その発言を受け取ることができます。それは、良い印象の場合もあれば、悪い印象の場合もあります。そして、悪い印象を受けた場合、これに反応して、批判や誹謗中傷に相当するワードが、同じように、メディアに発言として発せられます。メディアは、アクセスすれば誰でも参加できますから、その拡散性は高いです。このようにして、気分を害した誰かのとるに足らないはずのつぶやきが、誹謗中傷となってメディアで拡散していくのです。

 

メディアの仕組みを、市場の仕組みとして考えてみましょう。インターネット上で拡散する無限のコメントは、人に影響を及ぼします。人が、価値ある本を読むとき、重要な情報を新聞で仕入れるとき、その時、その情報には価値があります。これと同じです。インターネット上の情報は価値があります。価値ある情報は高値で売れるわけですから、情報は市場の価値です。では、どんな情報に価値があるのか。NHKから発せられる情報には価値があるのか。日本経済新聞の情報は価値があるのか。大統領や内閣総理大臣が決定した政策上のコメントの情報に価値があるのか。知らない人がぼそっと一言放った言葉に価値があるのか。すべて同じくメディア上の情報です。情報は情報源の信頼性に基づくのです。情報源の信頼性はどのように決まるのか。その人が自分にとって重要か重要じゃないかです。自分に影響を与える人の情報には耳を貸しますが、とるに足らない人の情報には耳を貸しません。そして、知っているか知らないかです。よく知っている人の発言には人耳を貸します。そして、知らない人の発言には耳を貸しません。そのような意味で、芸能人やタレントなどの有名人には、人は耳を貸してしまうわけです。このような影響力を持った人は、一般にインフルエンサーと呼ばれています。そして、インフルエンサーが発したワードは、その内容の良し悪しに関わらず、影響力を持ちます。これが、メディア上でのインフルエンサーの力です。そして、インフルエンサーはもはや市場の価値を持っています。インフルエンサーの発言は、高い値段がついているわけです。テレビやインターネット上で活躍する人々は、インフルエンサーであり、経済的にすでに高い価値を生み出す存在です。インフルエンサーは、市場の観点から、仕事上の職業と言えます。

 

そして、同時に、メディアは市場であり、消費者もいるわけです。消費者はメディア市場にもちろん参加してきます。ビジネスチャンスを狙っている人もいるでしょうし、本当に価値ある情報を探している人もいます。また、インターネットなどのメディアはだれでも参加できるという特徴を持っています。これがインターネットのメディアの力の所以です。その消費者が消費者として何かを消費するとき、名前を公表するでしょうか。しないでしょう。人がテレビを見て、車の宣伝を見る時、見るためにわざわざ名前を公表しません。人は一般にメディアに参加するとき、わざわざ名前を公表しないのです。もし、インフルエンサーのように、自分のメディア上での価値を高めたい場合、名前を公表する方が有利に働くならば名前を公表するでしょう。でも、メディア上の自らの価値を高めようと思わない場合、名前はわざわざ公表しません。

 

例えば、ほりえもんやイケハヤのようなビジネス目線の人々は、この仕組みを理解しています。インフルエンサーの意味を理解しています。ですから同時に、批判や誹謗中傷が引き起越される事実を理解しています。そして、それらがビジネス上無価値であったり、場合によって、価値を高めることに利用できることも知っていますから、全く気にしていません。さらに、匿名性は、メディアの市場として機能やインフルエンサーの価値の観点から、全く問題になりません。むしろ、匿名性を禁止することによって多くの人のメディア参加の閾値が上がるくらいだったら、匿名は匿名のままが良いに決まっています。メディアという市場の規模は、人々がどれだけ参加できるかにかかっているわけですから。

 

現在は、間違いなく、市場原理に基づいた資本主義経済を中心として世界は回っています。インターネットなどのメディアの力は間違いなく、このシステムを促進しています。市場やメディアのしくみがより機能していく事を考えると、匿名性は無くならないのが自然のように思います。

 

しかしながら、誹謗中傷は人が死に至る威力を備えていることも事実です。銃規制をして治安を鎮めるように、何らかの規制をしてネット上の誹謗中傷を抑止する手段は社会として必要でしょう。メディアの力は時におそろしいもので、ビートルズのジョンレノンも自身のカリスマ性により一般のファンに銃で撃たれました。これもジョンレノンがインフルエンサーであったことの所以です。メディアの力はおそろしいものです。ですが、人間社会では、厳然たる事実として、殺人事件もあるし、ネット批判もあります。良い悪いではありません。社会としてどうしていくのかという大きな問題ですし、人間自身の性質に基づくものです。

メディア上の問題は、今後もっと大きくなっていくと思います。経済上の人類の繁栄と、人間の性質が大きくかかわっているからです。個人個人が、この時代にメディアとどう付き合って生きていくのか真剣に考えなければならないと思います。