人には、その人なりの欲求があります。そういった欲求は、せっかくあるなら満たしに行ったらいいんだと思います。確かに欲求は、それが過剰になると身を滅ぼしかねませんが、そして、人に迷惑をかけかねませんが、とはいえ、自分の中にある欲求を、無いものとして生きていくのは、それはそれで、人間として生きていくには無理があります。
そもそも、自分の中にある欲求は何なのか。それすらも、人生の間に気づけないかもしれません。気付けないまま、ただ、その欲求を良くないものとして生きていこうとしているかもしれません。
ですが、案外、自分の中にある欲求は実は在って、単に自分が気付いていないだけかもしれません。もしくは、違う形で現れているかもしれません。ですが、違う形で現れてしまっているがゆえに、自分にとっての真の欲求には、やはり気付けていないかもしれません。
欲求というと、言葉として極端に聞こえますが、「自分はどうしてもこのように生きたい。」「自分はそれをする事が好きだ。」このように思う事も、要は、欲求から来る事であって、つまり、欲求とも言えるわけです。
きっと、どんな人にも、欲求はあるわけです。今は気が付いていませんが、潜在的には、自分の中にはその欲求があるわけです。人間ですから。
いずれ、その欲求は、表に現れてくる可能性があります。中にあるわけですから。それを、自分に気付いてあげる事は案外大事かもしれません。
人間ですから、欲求が無いものとして生きていく事は困難です。仏教では、もちろん欲求に任せて生きる事を進めたりはしませんが、人間の中に欲がある事は認めています。
言い方を変えれば、人間ですから、いずれその欲求は現れてくるし、向き合わざるを得なくなるわけですから、それだったら、むしろある事を認めて、それを満たしに行った方が良いと思います。満たした先に、真の平穏な生き方があるかもしれません。
そして、自分の中の欲求を満たしてあげる事で、凄く自分自身その事に納得できるかもしれません。真の満足を得て、落ち着くかもしれません。
ですから、自分の潜在的な欲求は発見する事が大事です。早くその欲求に出会う事は重要です。その欲求に出会う事で、それに向き合い、それとともにどう生きていくか、ある意味で、自分の生き方の軸が安定するかもしれません。
どうせ人間には欲求があるんですから、それを早く気付いて早く認めて、それと向き合いながら自分らしく生きていったら良いと思います。その先に、自分の欲求を超えた、安定した良い生き方が見えてくるかもしれません。