毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

人間の許すという行為、許すという言葉は必要なのか。

人間の許すという行為は、一体有意義なのだろうか。もしくは、許すという言葉は、意味があるのだろうか。

 

例えば、人と人との間で、相手から嫌な事をされた場合に、自分は許せないと思っているのに、相手を許すべきだと考えて相手を許した方が良いのだろうか。

 

この事に関して、仮に許した場合、相手の自分への行為が良くないのに、相手が、自分に振るった行為が良くなかったという事を良い行為だったと誤解してしまう、もしくは、良くなかったと認識できない。そのような事になりはしないだろうか。そうなるよりも、相手は許されない方が良いのではないか。正しく事実を認識した方が、起こした事の事実を受けいれる良い機会になるのではないか。そういう事です。

 

そして、自分自身も、相手の行為に納得できていないのにそれを許すという事は、それを無理に引き受けないといけなくなるわけで、でも、本当に自分はその起こった事実を引き受けられるのだろうか。納得できていないのに許した結果、受け入れられない事実を受け入れるという矛盾した状態に陥ってしまう。それは大きな苦しみを抱える事になります。

 

そのような意味で、人と人との間で、相手から嫌な事をされた場合に、それを許すべきとか、相手は許されるべきとか、そんなに重要な事ではないのではないか。そう思います。

 

そもそも、そのような事に関して、許すとか許されるとか、どれだけ意味があるのでしょうか。そのようにすら思います。

 

悪い事をされた事実、悪い事をしてしまった事実、これはいかようにしても事実として受け入れざるを得ないわけで、変えようもない事実なわけです。物事は基本的に不可逆的であり、過去に戻る事は出来ないわけです。

 

それよりも、起こった事実について、よく考える。よく理解する。そのような事に知恵を働かせた方が良いように思います。

 

実際、相手が自分にした嫌な事がなぜ起こったのか。その事実をよく知った方が、自分の助けにもなるし、相手への助けにもなるかもしれません。

 

また、悪い事をしてしまった本人も、相手に許されなかった事によって、起こしてしまった事実を引き受けて、何故自分がそのような事をしてしまったのか、何故相手がその事を嫌がったのか、理解できるかもしれません。

 

事実は事実として受け入れる。そして、物事を理解する。その事の方がよほど良いように思います。中途半端に許すより、もしくは、中途半端に許されるより、事実を受け入れて、事実を知って、成長した方がよほど良いように思います。

 

そのような意味で、許すという行為は有意義なのか。また、許すという言葉は必要なのか。これについては、特に有意義でもないし、必要でもないと思います。