毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

人はもっと無目的に生きていい。

人は特に目的を持って生きているわけではない。そう思います。なので、何か良いアイデアが出てこない時や目的が思い至らない時は、無理にそれらの事を考えようとしなくても良いと思います。

 

むしろ、自然を大事にする。無目的な状態を受け入れる。それくらいが、人間としては良いと思います。何か目的に突き動かされようとせず、その状態をそのままにしておく。

 

しかし、人はいつから、こんなに目的について考えるようになってしまったんでしょうか。人はそんなに、目的が無いと生きていけないもんでしょうか。

 

世の中は、何か生存本能を焚きつけるような仕組みがあって、世の中というか、人間社会では、人間同士で、生存本能を刺激し合うのです。そして、すぐに人間同士で生存の競争の仕組みを導入してしまいます。今も昔も、ずっとそのような感じです。きっと人は生存本能を刺激されると、すぐにそれに引き付けられてしまう生き物なんだと思います。

 

そして、その生存本能を焚きつける事が、目的を設定する事につながっているように感じます。目的を持って生きようとして、そして、何らかの生産性を上げようとして、そして、生存確率を上げようとする。そのような仕組みになっていると思います。

 

ですが、それでは、いつまで経っても目的を追いかける羽目になって、すでに目的が無いのに、目的がないといけないようになって、目的を無理に打ち立てようとしてしまいます。そして、その無理やりに打ち立てた目的に向かって生きようとして、安心しようとしてしまいます。

 

ですが、それではいつまで経っても安心はやってきません。そもそも、目的は安心を保証しませんから。

 

目的を打ち立ててそれに向かっている間、安心できるような気がしますが、しばらくすると安心できなくなってきます。そして、また、新たな目的が必要になってきて、無理に目的を打ち立てようとします。そうやって、安心と目的を交互に繰り返して、ですが、結局安心は得られません。

 

だから、目的というものは、そこそこにしておくのが肝要なわけです。時には目的も良いですが、別に、無目的でも良いわけです。無目的の時はそれにしたがって、無目的に生きたらいいんです。

 

むしろ、無目的に生きる方がよっぽど安心かもしれません。その意味では、人はもっと無目的に生きる事に慣れる必要があるかもしれません。そうする事で、自然に目的が生まれるかもしれないし、でも、やっぱり無目的でも良い。そんな生き方でいいんだと思います。