毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

話をする事の難しさ。言葉は文脈があってはじめて意味を為す。

人と話をする事は難しいなと思う事がよくあります。それは、話す事だけではなくて、自分の中で考える事でもそう思います。

 

1人で、何かを考えているとき、頭の中で、言葉が湧いてきます。そして、その言葉を足掛かりに、思考が展開していきます。そうやって色んな事を、言葉の展開とともに思考を巡らすわけですが、考えている事の意味する事は、自分の中では「言葉そのもの」だけではないという事です。

 

言葉として明確化された言葉には、人それぞれ背後に意味があって、その文脈を前提として言葉を表現しています。だから、実際には、ある文脈があってその言葉が表現されているはずで、でも、その文脈が言葉として表現されていなかったら、言葉という形として表に現れてきているのは、明確化した言葉だけなので、結局その言葉の意味は分かりません。

 

ちょっと分かりにくい話ですが、例えば、何でもよいのですが、「つらいなぁ」という形容詞を含む言葉の表現があった場合、何について「つらい」のか、どのように「つらい」のか、どうして「つらい」のか、色々と、その「つらい」事に関する文脈があるはずで、でも、その文脈が言葉として表に現れていなかったら、少なくともその「つらいなぁ」の意味は、本人にしかわかりません。

 

さらに、本人すら、つらいなぁと呟きながら、実はその内容については曖昧でよく分かっていない事もあります。それでは困るのですが、そういう事は起こり得ます。

 

だから、基本的には、言葉を使う時には、その文脈があってそれを背景にして表現されているので、常に、「言葉の意味が分からない」という問題が付きまといます。

 

言ったら、氷山の一角のようなもので、水面の表に出ている部分が全体の5%くらいだとしたら、それが表現された言葉で、95%は水面下に文脈として隠れているようなものです。

 

言葉には、そのような性質が元々あるので、仕方がないのですが、その文脈を分かっている上で言葉を使わないと、本当に、何の話をしているのか分かりません。自分の中ですらそうです。

 

だから、何かを考える時、言葉と時間をかける必要があります。たくさんの言葉を思考の展開とともに紡ぎながら、徐々に、文脈が自然と現れてくるのを待ちます。文脈も結局言葉により構成されることになりますから、言葉をたくさん紡いでいけば、それらが文脈になっていくので、そういう意味で、一定量の言葉がどうしても必要です。

 

そして、一人でですら、言葉の意味が分かりにくいという事態に陥りやすいわけですから、人と話をするとのは至難の業です。その文脈を共有しないといけないですから。だから、何か意味のある話をするときは、一定量の言葉を紡いで文脈も言葉として現れてくるのを含めて、互いに文脈を共有する必要があります。そうやって、文脈が共有出来たら、はじめて、ひとつひとつの言葉が意味を為してきます。

 

そういうわけで、言葉は文脈があってはじめて意味を為すという意味で、話をするのは難しいという話でした。言葉の意味は、それ単独では意味を為しません。背後に文脈が常にあります。だから、ただ言葉を使えばよい、発すればよいというのではなく、その文脈が言葉として表に出てくるように、時間をかけて話す事が大事だと思います。