毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

退屈を感じる時。無理に遊ぼうとせず「何もしない」。そして休むとき。

退屈だったりして、無理に何かをしようとしてしまう事ってあると思います。もちろん、仕事をする必要のない時に仕事をする必要は全くありませんが、せっかくの休みなんだから、何かしないといけない、何か遊ばないといけない、と思ったりしてしまいます。でも、そんな事は全然ないと思います。遊ぶ必要もないし、何もする必要はないんです。

 

どうしても、何か意味のある事をしようとしてしまいます。役に立つ事とか。そう思う事自体が、人生や生活に追い込まれて、いつだって自分に足りないと信じ込んでしまっている証拠で、何もしなくても良い時に、「本当に何もしなくても良いんだ」と解放された気持ちに全然なれていません。

 

むしろ本当は、休んでいい時だと思います。休んでいい時というか、休む時です。心の底から休めていないから、仕事のある平日だろうが、仕事の無い週末だろうが、関係なく、いつも無意識に、「何か意味ある事をやっていないといけない」となってしまっています。それでは全然休めていません。心の深いところで、休める時にはしっかり休む事が大切です。

 

退屈感は、それを阻害します。退屈なのが嫌だから、つらいから、それから逃れようと、また何かをしようとしてしまいます。遊びの下手な人は、私もその一人ですが、遊ぶことすら意味を持たせてやろうとしてしまいます。そんなことをやっていても、心は全然遊べません。遊ぶとは自然にやる事です。

 

だから、そういうのは、休む時だと思います。何もしない。何もしないというのが、どこかで怖いとか、どこかで不安に感じるのかもしれません。それも、心が解放されていない証拠です。退屈感のそのひとつで、その状態が不安だから何かで埋めようとしてしまいます。

 

きっと休み足りないんでしょうし、もしかしたら、睡眠不足かもしれません。しっかり身体が回復していないのかもしれません。きっと疲れています。本当に何もしない。何かを楽しんだり、遊んだりするのは、それからです。

 

やる事というのは、どうせあります。家事や雑事、言ってしまえば、仕事も雑事の内です。生きていく事の為に必要な事は、やります。トイレに行くのも、何かを食べるのも、どうせ日々の生活の中でやる事です。だから、家事や雑事のように、やる事はいつでもあって、ただやるだけです。食べる事なんか、もはや好きでやる事の1つになっていたりします。好きな事、楽しい事は、たいてい日常のやる必要のある事の中から見つかります。気が付いたら見つけています。だから、無理して、やりたい事を作る必要はありません。

 

だから、退屈を感じる時、「何かをしないといけない」と思ってしまう時、「何か遊ばないといけない」と思ってしまう時は、休む時だと思います。しっかり休んで、「何もしない」。退屈を感じても、「何もしない」。案外大事です。だらだら過ごす。良いと思います。だらだら過ごしているうちに、しっかり休んでいるうちに、気が付いたら何かを始めています。何か遊んでいます。