毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

言葉の不正確さが新しい意味を生み、言葉が暴力と化す。

言葉というものは、本当に難しい。つくづくそう思います。言葉の使い方を間違えると、容易に人を傷つけてしまうし、また、一方世の中の曖昧な言葉に振り回されている事もあります。

 

言葉を使うという場合に、一般に、自分の思っている事を言葉にして、それを発する、もしくは伝えるわけですが、その為には、自分の思っている事をより正確に捉えて、可能な限りその内容を言葉として表現しないといけません。それを実現するためには、ある程度の言葉の量が必要です。それは仕方のない事だと思います。本はページ数が多いですが、ひとつの意味を伝えたいために必要な言葉を使用しそれらを本に詰めると、あの厚さの本になってしまいます。そのくらい、ひとつの意味、ひとつの内容をより正確に伝えようとするのは大変です。

 

それを、普段の会話で行うとすると、また大変です。普段の会話は、本のように、ゆっくりと時間をかけて言葉を読んで伝わってくるものではなく、長くても1分程度の間で交わされるものです。思っている事を言葉として、その短い間に、出来るだけ正確に選択して使っていかなければ、会話として成立しません。どうしたって、言葉の選択ミスや粗い言葉遣いになってしまいます。

 

また、ツイッターのような、100字程度の言葉で意味を表現しようというのも、限界があります。かなり正確に言葉を選択して表現したとしても、きっとそれには何らかの文脈があるでしょうから、それをツイッターの中に通常書き切れないので、思っている事を正確に表現する事は出来ません。炎上している様子などは、それを反映しての事です。文脈を共有していないから、ツイッターを見た人が抱いた文脈が、ツイートした人の文脈と違う場合は必ず誤解が生じます。これもまた、言葉の不正確さによる限界を示しています。

 

また、「思っている事を言葉にする」という事自体にも問題があります。思っている事を言葉にしようとする事は、言葉の使用の仕方としてはその通りですが、別の言葉の使用の仕方としては、「言葉を何気なく使ってしまう」という事もあります。以前にどこかで聞いたことのある言葉が頭の中に記憶されていて、ある時、それに類似した状況が現れたときに、その言葉を実験的に使ってみる、さらに言えば、使ってしまう、という事があります。事前に思っている事とは関係なく、言葉が思っている事に先行して使用されるという事です。

 

ただ、そのようにして、言葉が使用される事で、逆に新しい意味が生まれたりします。言葉にはそのような側面があって、むしろその性質によって、どんどん新しい意味が形成されています。

 

とは言え、この新しい意味形成としての言葉の性質も、結局、文脈を共有していない場合には、意図しない誤解が生じ、拡大し、言葉が暴力と化す場合もあります。何気ない言葉の使用が、相手によって言葉の暴力となりますし、違うどこかでは戦争のように猛威を振るいます。インターネット上の言葉のやり取りや、つまり情報は、そのような側面があります。

 

そのようなわけで、言葉とは思っている事を言葉にするというものから、思っている事に先行してただ言葉として使ってみるというものまであって、その使用の仕方は様々です。ですが、そのおかげで、新しい意味形成の機会にもなりますが、一方そのせいで、相手を不用意に傷つけたり、言葉の暴力と化したりします。それも、言葉の不正確さゆえですが、それが言葉というものであり、言葉の限界というものです。