毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

いつも仏教が的を得ていると思う理由。苦しみと囚われ。

自分の事や世の中の事で悩んだり考えたりするとき、いつも仏教的な考えに辿り着いて、仏教は結局一番的を得た事を言っているなと、よく思います。

 

例えば、「苦しみ」というのがあります。人は根本的に苦しみを抱えていて、いかにこれを軽減させるか、この事がいつも問題になると思っています。安心とか平安とか、そういう言葉がよく出てきますが、心に安らぎをもたらす事がいつも重要で、これも苦しみをいかに軽減させるかという事が問題になるという事を言っていると、いつも思います。人間が何故苦しみを抱えているのかという事を、進化論的に考えると、人間は危険を察知する事が最も重要なように出来ていて、もし危険を速く察知できなければ命を落としてしまって生存できなかった歴史を考えると、私たち人間はその子孫であるわけですから、危険を最も強く察知するように出来ているのは当然かなと思います。危険を察知せず、危険な状態でものんびりしていたら、生き残れなかったんだと思います。その意味で、人間はネガティブな感情としての苦しみ、つらさを抱えているんだなと思います。現代は、その当時ほどそのような危険な状況ではないので、ネガティブな感情をそんなに感じなくても生きていけるほど安心安全な世の中になってきているのですが、ネガティブな感情のフィードバックシステムは持っているので、常に苦しみと隣り合わせになっています。

 

また、「囚われ」という言葉もあります。人間はいつも何かに囚われています。それは、自分にこだわっているからです。でも、世の中は諸行無常の世界で、いつも常に移ろっていて、その中で人間はその世界と関わりながら生きているわけですから、その世界に任せていれば自分は自ずと変化するのですが、世界を見る自分は自分の視野からでしかないので、その自分の視野から見える世界は自分自身を自分の思い通りにしたいと思ってしまいます。だから、結果的に自分に凄くこだわってしまいます。これも自分に囚われているなと、よく思います。そして、あんまり色んな事に囚われていると、疲れてしまいます。仕事でも人間関係でも、自分の感情や気分に強く影響を与えてくるものに対して、凄く囚われてしまっていて、それらから少し離れると、気持ちが楽になったりします。いかに自分がそのような周りの事に囚われていたかが分かります。囚われは人間として普通なので否定するものではないのですが、囚われを上手くハンドルする事は大切だなといつも思います。

 

そんな感じでしょうか。日々生活をしていると、「苦しみ」や「囚われ」が問題になってきて、そういうのは本当に仏教が上手く説明しているな、と思ってしまいます。

 

仏教の考え方は本当に自分に役に立つので、これからも仏教について学んでいきたいなと思います。