毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

川の流れ。時空間はない。過剰な自分、追求、合理性は良くない。ただ聞き、ただ観る。

今回は、川の流れに例えて、時間や空間はない、過剰な自分へのこだわり、追求や目的、合理性は良くない、ただ聞いて観るのが良い、というほぼ仏教のようなお話をしようと思います。

 

川の流れというのは、ある川の場所を特定しなければ、時間という概念はないというところから話をします。もう少し言うと、川の水というのは、地球や自然の仕組みでいろんな場所の山から流れて海に行きついて、それから、水蒸気になって雲になって山に運ばれるという形で循環しているものなので、川の水にとっては、どこから水が流れ始めたかというスタート地点はないから、その意味で、スタート地点という場所や流れ始めるという時間の概念が無いという事です。

 

この話から分かる事は、自分というのは、川全体の循環の中で川のある場所を特定する事で、自分、私という存在にこだわって特定すると、時間や空間が生まれるという事です。

 

そして、何かを追求しようとする事や、目的や目標、合理性のようなものは、自分にこだわり過ぎると生まれてくるという事です。川に例えて自分を特定すると、空間という意味での自分の場所が特定されて、場所が特定されると川の水のスタート地点が決まるから時間が生まれて、時間が生まれると、水がどこからどこまでこのくらいの時間がかかるという事が分かるから、合理性が生まれてしまって、自分個別の目標や目的が生まれてしまう事という事です。ですから、自分に過剰にこだわると、過剰に何かを求めたり、過剰な目標を達成しようとしたり、徹底した合理性、生産性が生まれてしまうという事です。それは過剰な自分へのこだわりです。大きな世界の仕組みに基づいた川の流れがあって、一滴の水があると考えると、その水は川の流れに身を任す事が最も自然で、最も生き生きと流れて、ある特定の水にこだわると濁流の中に飲まれてしまうというわけです。

 

そういうわけで、過剰な自分に対するこだわり、エゴは捨てた方が良い、という事になるのかなという事です。

 

川の流れで言うなら、ただ川の特定の場所をこだわろうとせず、つまり、自分に過剰にこだわろうとせずに、ただ川の流れを見るだけで良いという事です。ある特定の何かを観ようとすると視野を狭めて、他の多くの事を見逃してしまいます。多くの大事な事は周りにいくらでもあるのに、自分にこだわるあまり、何かを追い求めようとするあまり、見逃してしまうという事です。ただ川の流れに身を任せて、よく聞いて、ただ観る事で多くを知る事が出来るという事です。

 

五木寛之大河の一滴というのは、人は川の一滴の水に過ぎないというわけで、大きな世界の営みがあってはじめて水の一滴があるわけですから、その世界の循環に身を任せて生きるという事は、大きな意味での人間が生きるという事のひとつの真理を言っているように思います。