毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

人間は散漫な生き物。

人間は本来散漫な生き物。意識しなければ、すぐに散漫になってしまう。そういう生き物です。

 

別に人間の脳みそは、何か統合されるためにあるわけではありません。散漫なものは散漫なまま事もあります。だから、いつだって注意は散漫になりがちです。

 

何か、論理的であるとか、整合性がとれているとか、そういう事は意識的にやっている事であって、そもそもは論理的でも整合的でも何でもありません。

 

神経細胞のネットワークを意識的に学習によって刈り取っていく事によって思考のパターンを作り出しているわけで、そうでもしなければ、散漫なままになってしまうからであって、でも、そうしなければならないわけではないわけです。

 

ただ、確かに、自分の中で整合性が取れるように頭の中を整えておくようにしないと、生きていくのが困難にはなってしまいます。世の中の事は分からないし、他人との会話も難しくなってしまいます。

 

言葉を覚えるように、文法を覚えるように、ある程度はパターンを作らなければなりません。こうして書いている文章もそのようにした結果ではあります。

 

こうする事で、他人と、多少論理的にやり取りは出来るわけで、つまり、コミュニケーションは取れるわけで、今やそれは必要な事ではあります。

 

とは言え、元は、脳の神経系は、散漫ではあるわけで、それが悪いって訳ではないんです。

 

散漫さは、他人とのコミュニケーションや世界の理解は難しくしますが、それだけではなく、自分自身も何かもやもやして苦しくはあります。

 

ですから、あまりに散漫さを放ったらかしにはせずに、自分なりに論理的に、整合的に保たなければなりません。苦しみを和らげる為にはしょうがない事です。

 

ただ、あまりに論理的に、また、整合的になり過ぎると、融通が利かず、頭でっかちの人間になってしまいます。論理はあくまで論理であって、正確というわけではありません。

 

また、柔軟性が損なわれてしまう恐れもあります。色んな事を受け入れ、理解する為にも、ある程度の柔軟性は保っておいた方が良いわけで、その意味では、ある程度の散漫さというものも許容した方が良いという事です。要はバランスです。

 

そのようなわけで、人間というものは、そもそも、散漫な生き物であるわけですから、散漫さで苦しい事に関してはそれは当然であり、普通であるわけですが、世界の理解と他人とのコミュニケーションのためには、ある程度論理性と整合性はあった方が良いという事です。ですが、あくまである程度という事です。