毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

時間とは相対的なもの。時計の針、みんなの時間。

時間というものは、時計の針とともに回っている。そのように感じます。そして、時計の針は刻々と時間を刻んでいるのに、自分は何も進んでいない。停滞している。そのように感じると、時間は凄く短く感じられ、時間に追われ、余裕が無くなります。このような時間の感覚では、自分と時間との関係において苦しくなります。

 

時計の針は刻々と刻まれて、時は前に進んでいるのですが、自分が感じている時間も、その刻々と流れる針の進む速度と同じ程度で進んでいるとしたらどうでしょう。意外にも、時間に追われている感覚は無くなるかもしれません。確かに、時計の時間は進んでいますが、自分も同様に、時計の時間と並行に進んでいれば、そんなに時間に追い込まれた感じもせず、苦しい感じもしません。

 

この事は、ひょっとすると、時計の時間と、自分の感じる時間との相対的な関係が重要だったりするのかもしれません。時間を、そのように相対的にしか感じられないとすれば、時計の時間に対する自分の時間がもしゼロであれば、時間の感覚は無くなるのかもしれません。時間に追われる感じもなく、苦しくはないのかもしれません。

 

時計の時間とは何かと言うと、例えば、電車の出発の時間のようなものです。電車が出発する7時45分という時間が決まると、皆その時間に駅のホームに行って電車を待つようにすればいいわけです。そうすれば、確実に電車に乗る事が出来ます。時計の時間とはそのようなものです。つまり、時計の時間とは、みんなと共有する為に作られたものです。みんなと足並みをそろえる為に、時計の時間を作られたという事です。

 

だから、みんなと共有する為の時計の時間に対して、自分の時間が合っていなければ、例えば、自分の時間が遅ければ、みんなのスピードに後れを取ってしまいます。だから、みんなの時間に合わせる為には急がないといけません。そのような状況になると、時間に追われた感覚になります。

 

逆に、みんなより少しでも早く駅のホームに到着すれば、余裕を持って電車に乗れます。この場合、時間はゆっくりに感じられます。そのように、この世界で感じる時間とは相対的なものなわけです。

 

ある意味、みんなとつながればつながるほど、インターネットでつながればつながるほど、様々な情報を共有して、その結果、時間を共有し、時間に追われる感覚になります。余裕が無いように感じます。

 

感じる時間とは、相対的なものです。そのようなものなので、時計の針が刻々と進んでいる時間やみんなと共有する時間とは上手に付き合って、自分の時間を生きるようにする事が大切です。