毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

「人の為」では報われない時代。欲望機械として忖度主義から脱却する生き方。

会社員として働く40を超えるサラリーマンのみなさん。出世はできていますでしょうか。その見通しはあるでしょうか。日本の企業はこれまで、みんなの為、チームの為に働くという企業文化の中でやってきたのではないかと思います。そしてその結果、上司に認められて上の階級に引き上げてもらえていたのではないかと思います。でも、今の時代は違います。経済は以前ほど成長していませんから、自動的に出世する事はありません。現在は、多くの会社が「社内評価の見える化」を推し進めていて、成果主義に移行していると思います。ですから、以前のようにみんなの為に働いていても出世できないわけです。従来型の「みんなの為の働き方」では報われない社会になったのです。

 

でも、日本は基本的に忖度社会です。人の迷惑にならないように、みんなと空気を読み合って上手にやっていく社会です。子供のころからこんな感じだったと思うので、40代のみなさんはこの状況をよく分かっていると思います。発達障害の傾向を持つ人たちは、空気を読まないといけないわけですから、この忖度主義に苦労するという事も容易に想像できます。そして、この忖度主義は、成果主義に移行する中で、いまだに依然として存在感を保っています。

 

ここで、資本主義社会とは何か、考えてみましょう。1970年代でドゥルーズガタリが「アンチ・オイディプス」の中で、人間の振る舞いを欲望機械として見立てて説明しました。当時、共産主義社会ではなく資本主義社会が勝利したわけですが、その理由は、人間は基本的に「欲望機械」であり、その性質が資本主義社会を選択したと解釈したわけです。そして、日本は戦後から今に至るまでに資本主義社会を選択してきて、成長してきました。

 

日本の忖度主義は、日本社会の見えない規範や空気に従う、極端に言うと、屈する主義です。アンチ・オイディプスで言う欲望機械である人間の振る舞いに反する主義です。ホッブズの社会契約論の支えるマキャベリズム的な人間像というのは、人間は生来人を信用しておらず狡猾でいつでも出し抜こうと自分の利益の為にチャンスを狙っている生き物なわけですが、欲望機械である人間が、オイディプスが象徴する社会規範からの抑圧を受ける中でアンチ・オイディプスできずに分裂した状態にあるというのは、そのようなマキャベリズム的人間の性質を持たなければ成功できない、そういう事を言っているのだと思います。だから、資本主義社会の中で、忖度主義でやっていくのはまさにこう状況、欲望機械である人間として本当に追い込まれた事態なのだと思います。

 

今は、人の為より自分の為の時代なんだと思います。それは個人レベルの話ではなくて、歴史の流れに基づく社会の要請です。そして、自分の為に生きなければ、人の為、みんなの為にも生きる事も出来ない時代なんだと思います。それが、資本主義社会という時代を生きるという意味だと思います。だから、欲望機械として、忖度主義から脱却して、「人の為」の前に、「自分の為」に生きるべきだと思います。正しく言えば、自分の為に生きてよい時代です。みんなの為、社会の為は、それからだと思います。そういう時代です。