毎日の習慣や哲学の実践をつづる40代ブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けている40代です。

国民の為の国家の運営が国民にとって生きやすくならない理由。

日本という国に住んでいて、みなさんどうでしょうか。日本は一応先進国という事になっていて、他の先進国と同じく資本主義経済のシステムに基づいて国家運営が為されていて、政府も国民がより豊かに、自由に、生きやすくなるように運営しようと努めていると思います。その上で、生きやすく感じられているでしょうか。

日本社会は、他の国と同じように、数多くの社会問題を抱えていて、これらの問題に対処しながら少し住みやすい国を目指して、きっと国家運営はなされていると思います。しかしながら、例えば、日本の社会問題のひとつ、少子化問題を挙げたとしても、この問題に直接関係ある人、無い人に関わらず、国家の運営に向かう方向に自分の生き方を合わせていけば生きやすくなるように感じられるでしょうか。子供たちにとっても、若者にとっても、独身の人にとっても、子供のいない夫婦にとっても、子供のいる夫婦にとっても、子供がすでに独立した夫婦にとっても、どうでしょうか、少子化問題をはじめとする社会問題について、国家の運営に任せていれば大丈夫、と安心していられる人はどのくらいいるのでしょうか。そもそも、国家の向かう方向に、国民である自分の向かう方向は一致するものなんでしょうか。国の向かう方向は国民の望むような方向に向かおうとしているとは思いますが、きっと国民である自分はそう感じにくいのではないかと思います。一体なぜでしょうか。

 

そこで、この資本主義国家である日本という国とその構成員である国民との関係から、埋められないと感じるギャップについて考えてみましょう。

そのために、ここで、"生命"という性質を持ち出して、人間や国家というものについて考えてみたいと思います。

 

その前に、まず、現在の国家に期待される概念について、考えてみましょう。ホッブズからはじまる社会契約論の考え方を参考にして、国というものを考えますと、まず、国民から構成される国家があります。国家を運営するにあたり、国の統治という問題から考えます。国を統治するためには、国家の頂点に政府を配置することになります。そして、政府は国民を代表するペルソナの意味を持ちます。政府は、実質的には、議員が国民から選ばれて間接的に、民主制に基づいて、政府を組織して、国民の代わりに代表者として国民が望むように統治し、運営することになります。これが、おおまかな社会契約論にもとづく、一応、民主的な国家の形です。国家は、政府を立てて、国民の代わりに国民の為に運営が為されるのです。

 

さて、では、生命という性質を持ち出して考えていきます。まず、生命の定義を、生命の最小単位である細胞から考えてみます。細胞は、細胞膜に覆われた生き物です。そして、細胞には内部を持っています。また、細胞は水の中でしか生きられません。つまり、「水という外部」と「細胞膜という界面」と「細胞の内部」の三層構造があって初めて細胞が成り立っていることが分かります。そして、細胞膜は単なる細胞と水を隔てた壁ではなくて、細胞膜を介して、物質をやり取りしています。この外部の環境と内部の間で物質や情報をやり取りすることによって生命性を保っています。これが、生命の定義です。

さらに付け加えると、細胞はさらにほかの細胞と相互作用したり融合したりして単細胞から多細胞と、複雑性を高めながら、生命性は高次になっていきます。細胞から組織、組織から臓器、臓器から人、というように、生命は、細胞から人間に向かって階層構造になっています。細胞と人間の関係は、生命の入れ子構造のような関係になっています。

 

では、人間の生命性とはどのようなものでしょうか。人間も生命ですから、三層構造になっています。人間と、身体の、環境です。身体を通して物質や情報のやり取りをしています。環境とは、人間社会を含みます。人間社会は高次には、すなわち、国家を含みます。国家は、人間にとって外部であり、環境であり、人間の生命性の一部です。国家と国民の間でやり取りをする事で、国民の生命性は維持されます。

 

では、国家の生命性とはどのようなものでしょうか。国家の内部は、上に述べたように国民から構成されていますが、外部はなんでしょう。例えば、国際関係上の他の国々と関係を考えますと、地球規模の政府のようなもの、地球上のすべての国を組織している統合体のようなものになりでしょうか。実質的には、現在、そのようなものは存在しません。国際連合や、昔のアメリカ合衆国にように、世界を統一するような動きはありましたが、現在は実質的にはありません。

 

そこで、話は戻って現在の国家の運営はどのようなシステムで回っているでしょうか。それは、資本主義経済ですね。基本的に、地球上のほとんどの国家は、資本主義国家の体制をとっています。

では、資本主義社会とはどのようなものでしょうか。資本主義経済システムを基本とする場合、資本を投下して新しい市場や経済を作り出し、それで得た利益を資本としてさらに投資に回して経済が成長していきます。資本主義経済の場合、国家は基本的に成長する方向に向かいます。まさに、生命が成長するように、資本主義国家は成長を目指します。これが現在の、まさに、資本主義国家の実体であり、生きている様です。

 

資本主義社会の生命性とは、企業を考えればわかりやすいと思います。企業の生命性とは、企業と、多くの競合他社や市場という環境の中にいます。そして、その生命性として、企業は成長を目指す事を宿命づけられています。企業は成長し続けることによって生命性を保ち、成長を失うと生命性を失っていきます。

 

そうすると、資本主義国家に住む国民は、どのように生きるのでしょうか。それは、企業につとめるビジネスマンに求められる生き方と同じです。利益を追求する生き方ですね。ですから、資本主義国家を構成する国民は、資本主義の性質を備えていないといけません。それが、資本主義国家に住む国民の現実的な生き方になります。

 

つまり、国家も国民も、それぞれ生命性を持ち、国家は国家で自らの成長を目指し、国民は国民の自分の成長を目指します。これが資本主義社会での生命の生き方となります。国も、国民も、同じく生命というわけです。

ここで、国民と国家の関係を考えますと、国家は、国民から構成された組織体です。国家は国会の生存のために生きていこうとする一方、国民は自分たち自身の生存のために生きていこうとします。このとき、国家の運営方針が、国民にとって生きにくい方針になってしまう場合、大きな問題が生じます。国民は生きていけなくなるのです。それは、自分と細胞の関係も同じです。太り過ぎたらダイエットをしないといけません。でも、ダイエットをすると細胞は一部生きていけなくなります。まさに、国家と国民の関係です。

 

では、あらためて、資本主義国家における少子化問題について考えてみましょう。資本主義国家は、成長することが宿命づけられていますから、普通に考えて少子化対策は推し進めなければなりません。少子化対策は、まさに国家の生存に直接かかわっています。資本主義国家の観点からすれば、ある意味当然です。一方、国民は資本主義社会の 中で、個人個人は成長しなければなりません。それは、経済的という事を含みます。独身であれば、自分の経済力を高めなければなりませんし、夫婦は夫婦で世帯の経済力を高めなければなりません。そうやって、資本主義社会の中で、それぞれの国民はそれぞれ状況の中で自分自身を経済的に成長させようとします。

子供のいる家庭の場合、その家族は、独身や子どものいない夫婦よりも経済力を増やさな得ればなりません。そして、これは直接国家の命運にも関わってきます。ですから、国家は、子供のいる夫婦が経済力を増やしやすいように政策を打つことになります。でも、あまりに子供のいる家族ばかりを優遇すると、独身や子供のいない夫婦は生きづらくなります。また、子供を産むことを政府があまりに推進しすぎると経済力のない夫婦がたくさんの子供を作る場合もあります。国家はそれにより成長しますが、その家族は経済的に圧迫してそれこそ生きていくのが難しくなります。また、子供を産むことが国家の大きな期待ですから、プレッシャーが女性に身体への負担と経済力の両方がのしかかります。子供を養育することは働く事を制限しますから、一方で資本主義社会の中では不利になります。そのようにして、独身であれ、子供にいない夫婦であれ、子供のいる夫婦であれ、生命としての国家の運営が、自分たちにとって生きやすくなるとは言えないです。国民の少子化対策は、独身や子供のいない夫婦にとっては、優遇されない政策になるのは当然ですし、子供を増やすことは資本主義社会を生きる自分たち自身にとっては経済的に負担が大きくなります。

 

国家は国民から構成された国民の為の組織体であると同時に生命性があります。国家自身が生き延びるためには、ダイエットの時の細胞のように、国民の生活も圧迫されます。国家は国際的にも国家間の生き残りをかけた戦いがあり、人間は自分たち自身の生き残りをかけた戦いがあります。そして、資本主義社会を前提していますから、国家も国民もみな成長を余儀なくされます。国家とは、生命性の観点では、国民の為に存在している前に、国家自身の生命の存続のために生きています。そのようなしくみの中で国家も国民も生きていくしかないのです。