毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

性被害や臓器売買から考える社会の在り方。遺伝‐環境からホッブズの社会契約論へ。

昨今注目を集めているMeToo運動。多くの女性による性被害に関する勇気ある声が世界を変えようとしています。それでも今までの告発は、実態のおそらく氷山の一角。今のところ、女性たちが生きていくのに、まだ十分安全で自由な社会とは言えないのが現状だと思います。また、世界各地の貧困のエリアで行われている臓器売買。時折ニュースやインターネットの情報でそのような現実が知らされたりしますが、これらも氷山の一角だと思います。一体どこでどのようにして、このような犯罪が行われているのだろうか、このような問題の発端は一体何なんだろうかと考え込んでしまいます。

 

考えてみると、実際にはこのような犯罪は自分たちと同じ人間が行っているわけです。自分と同じ人間が、どこかの子供を誘拐して殺して臓器を取り出して売る。信じられないですが、事実として起こっているのです。日本でも、様々な犯罪が行われていますが、さすがにこのような臓器売買がこの日本で起こっているとは考えられません。日本はまだ先進国で、社会の治安も国家や警察の権力で多少保たれています。でも、世界の多くの社会はそこまで成熟しておらず、安全な環境が維持できていないというのが実情だと思います。そのような国や社会では、政府の力も弱く、警察や社会を維持する機構も脆弱で、学校教育も不十分でしょうから、子供の安全も守られるどころか大人たちの社会性も育ちません。環境があまりにも違います。人間は生まれてきて環境の中で発達していきますが、そのような環境では先進国の人々と比較してまともに発達、成長していく事が難しいですし、環境そのものがそのような現実ですから、大人たちもそれがある意味普通の環境という感覚で生きています。環境が人間自身をそのようにしてしまうのです。

 

人間の性質は、遺伝の要因で決まるのか、環境の要因で決まるのか、という長い論争があります。いまだに決着はついていませんが、今のところは、遺伝の要因と環境の要因の両方が人間の性質を決めると考えられています。20世紀初頭までは、遺伝要因が重要視されてこれが結果的に悪用されナチスをはじめとする優性思想が勢いを増しました。その後の反省もあって、優性思想は見直されてきましたが、それでも人間の性質に対する遺伝要因はあるとの見方は今でもあります。DNAの遺伝子の特性は、人間の性質に対する遺伝要因を科学的に後押しするものではありますが、一方で、DNAのセントラルドグマにおいても、DNAからタンパク質へのプロセスの初期段階に外部からの環境要因が絡んでいるという科学的な見方が20世紀の後半に出てきて、いわゆる、エピジェネティクスとして注目を集めてきました。つまり、社会の中に、人間の性質は遺伝で決まるのではなく、環境により決まるのだとする流れが起きてきているのです。実際想像してみればわかると思いますが、人が胎児として産まれてきたあと、その発育の過程によって人の性質や人格は大きく変わるという事実は理解できると思います。人が環境要因で決まるというのは、自分はどんな生まれであっても変わることが出来るという意味で、とても希望のある考え方だと思います。

 

一方で、頻繁にニュースで入ってくる残忍極まりない殺人鬼などの話は、実際に先天的に殺人の欲望を持っている人間が多くいるという事を示しています。人間には、人を殺したいという欲望を持っているのです。もちろんそれはすべての人に対してではありません。ですが、先天的にプログラムされている人がいるのです。おそらく、日本でも報告される多くの性犯罪は、子供に対する性犯罪の話を聞いてもそうですが、欲望を抑えられなかったという証言も多いですし、実際のそのような欲望を先天的に持ってのだと思います。

 

人間には、様々な種類の欲望を持っています。それは自由の観点からも欲望については議論をされてきました。その多様な欲望の中に、人を殺したい欲望や、性犯罪をしたい欲望があった場合、社会として認めてよい事なのかというと認められないように思います。社会や国家は、そのような意味で、重要な役割を果たさなければならないのだと思います。

 

西欧政治史の中で、社会契約論という概念があります。ホッブズがはじめに、人間の性質を、利己的で狡猾で自分勝手な生き物と仮定して、その人間が集まって国民の一因となって国家を成立すると考えました。国家はその国を維持するために政府の権力が絶対であるとしました。その後、国民の自由の観点から、人間は他の動物と同じく生まれながらにして悪であるはずはないとして、産まれてくるすべての人が生きる自由があると宣言して、ルソーの社会契約論が注目されました。この考え方が、現在の基本的人権の基本になっていると思います。どのような人間でも、他の動物と同じように赤ちゃんとして生まれてきて、その子に自由や尊厳は認められるか、といった場合、認めないという論をないと思います。すべての人々には平等に生きる権利があり、尊重されるべきです。

 

そういった社会契約説を踏まえたとき、殺人したい欲望や性犯罪をしたい欲望は先天的に備わっているとして、人間の個人の自由が認められるべきなのでしょうか。現代の科学に基づいて人間の性質を考えたとき、人間は尊重されるべきですが、野蛮な獣のような性質がないかと問われると、無いとは言いきれません。社会は、人間一人一人を尊重すると同時に、人間社会を維持する事が役割です。ホッブズの言う社会契約論は国民の国家に対する自由が制限されていますからそのまま採用はできませんが、人間の性質の捉え方は一概に間違っているとは言い切れません。その意味で、ルソーの社会契約論からホッブズの社会解約論に、時代は戻りますが、シフトする必要があるのかもしれないと思います。ある程度、社会や国家が介入して、人間の自由を制限しないといけないのではないかと思います。