人間が発展させてきたもののひとつに「記号」というものがあります。ですが、人間は自分たちが作り出した記号によって苦しんでいます。
言葉は、記号としてのシンプルで代表的なものですが、自分たちが作り出したものでありながら、自分自身を不自然にし、それによって苦しくなっています。
自然の中から生まれ、自然とともに生きている人間が、同様に自然の一部である人間から生み出された記号によって苦しんでいるという、不思議な状況です。
ただ、自然の中にいる人間が苦しくないかと言うと、そういうわけでもなく、確かに人間は自然の中での苦しみから逃れようとして、記号を作り出してきたとも言えます。
記号によって、人間は解放され、救済されたと解釈しても間違えてはいません。
ですが、記号が発展し過ぎた結果、記号のシステムという新たな生態系のような世界が構築され、そして、人間はこの記号システムに適合して生きざるを得なくなったわけです。
これは、人類の新たな苦しみと言えます。
自然に基づく生態系の中で人間は苦しんでいたわけですが、一方で、記号に基づく新たな生態系の中でも苦しんでいるわけです。
今や、記号システムから距離を取って、生身としての自分を取り戻そうと、自然への回帰という欲望というか、記号から解放を求めているわけです。
記号が人間から生まれたことは紛れもない事実であり、記号は人間の性質を帯びています。
ですが、記号化された社会は、人間の性質を過剰に引き出す性質があり、あまりにこの社会に適応し過ぎると、人間は自分自身の性質の一部を特化させる状態となり、もはや自然な状態からかけ離れて、不自然な状態になってしまいます。
生身としての人間は、記号への過剰な適応に耐えられませんから、当然苦しくなります。
この過剰さを抑制し、人間性を取り戻そうとして自然に回帰しようとするのは、人間としては当然です。
都会的なもの、都市化したもの、あらゆる記号化した社会から距離をとり、自然を取り戻したいのです。
現代の生活は記号でいっぱいです。記号のない生活はあり得ません。もはやわたしたちはすでに、記号のシステムを前提としています。
ですが、過剰な記号はもはや自然からはかけ離れています。森も川も、植物も動物も、そして、人間も自然です。身体も自然です。
記号の過剰性に、もはや人間は耐えられません。
自然に回帰しないといけません。記号化された身体を抑制して、自然に戻るのです。そうしないと、生身の人間である私たちは耐えられません。