人は、どの時代、どの場所で生まれるかということを選ぶことはできません。
その時代と場所の制約の中で人はいかに生きるか、それがその人自身が生きていくのに大きな影響を与えるわけです。
人の価値観は、その時代その場所の影響を受けながら身につけられていくので、身につけられていく価値観の内容は、未熟であるがゆえに自分ではそれをコントロールできません。
ですから、ある程度成熟して大人になってから、ようやく客観的にどのように生きていこうかということを、考えられるわけです。
客観的とは言え、自分自身はその時代と場所という環境の影響を圧倒的に受けてそれによって育てられていますから、その(ある種偏った)自分が自分自身を客観的に見るということ自体、非常に困難ではあります。
ですが、真に客観的に自分自身を見ることはできないとしても、それでも何とか客観的であるようにして自分を捉え、解釈して、自分なりに理解して、そしてはじめて、自分自身というものがどのように生きていくのがいいのか、考え始めることができるわけです。
このプロセスは、自分自身を否定するプロセスにもなり得るし、自分自身を解体していくプロセスでもあるので、その意味でも困難であると言えます。
自分を否定し解体し、新たな自分を再構築したとしても、その根っこのところに元の自分自身が残っていたりして、それをも根本から解体できないことに、ある種諦めざるを得ない感覚が伴いますが、その断念も含めて、可能な範囲で再構築をしていくわけです。
そして、その時代、その場所で生まれた自分を乗り越えて、多少はその影響を残しつつも再生して生き始めるわけですが、ひょっとしたらそこからが、自分として生き始める本番かもしれません。
そのようにして新たに再生した自分とともに、あらためて、その時代と場所で自分なりに生きていくために必要なことを選択していくことになります。
もはや選択できないこともありますが、できることも少しあるかもしれなくて、それでも、その範囲の選択ができたなら、それで十分再生して自分で生きていると言えるかもしれません。
そのプロセスにおいては、多くの困難があり、多くの断念があり、そして、選択できることも限定的であるかもしれませんが、それでも、可能な範囲の限られた選択によって自分なりに生きていこうとすることが、生きていくということと言えるかもしれません。
それで十分納得して生きているとは思えないかもしれませんが、精いっぱい生きていると言えるとは思います。