人は、何か、確かさを求めています。フィードバックとしての確かさを求めています。
何かを押したら押した分だけの手応えが欲しいのです。作用と反作用です。
人間は独りで生きているわけではありません。誰かと生きています。
また、誰か人と生きていないとしても、何かと生きているのです。それは生き物でも生き物でなくても、とにかく何かと生きているのです。
この世の中に対してもそうです。世界に対してもそうです。世界はただそこにあるようで、手応えのない世界は、自分にとって望んでいる世界ではなく、手応えのある世界を求めているのです。
人間は、ただ生きているのではありません。ただ生きているだけでは済まないのです。
何かを押したら、押した分だけ手応えが欲しいです。
土に向かっても、ただその上に突っ立っているのではなく、鍬を持って耕して豊かな土地にしたいのです。豊かな土地にして、野菜を実らせたいのです。
ただ耕すのではなく、耕した分だけ実ってほしいのです。
実りという手ごたえを求めているのです。
人間が植物を好きなのは、その意味で、植物は手をかけた分だけ育ってくれるのです。
人間が意味を求めるのも同じことです。
人は意味を感じないとつらく感じます。意味を求めています。
そして、意味とは、手応えなのです。手応えが欲しいです。
何かリアクションが欲しいです。
ですから、世界とは、自分にとっての手応えのあるものであり、世界との間で、意味を生成するのです。
その意味で、手応えがあれば何だっていいのです。自分なりの手応えがあればいいのです。
とは言え、自分にとっては何でもいいわけではありません。他の誰かにとって手応えがあるからと言って、自分にとって手応えがなければ、意味を成さないのです。
手応えが必要なのです。
誰かにそれを与えてもらえれば、それでもいいかもしれませんが、たいていの場合、自分で見出さなければなりません。自分で見つけなければなりません。
手応えは自分しだいです。真剣さ、真面目さは、手応えと関係しているのです。
人は手応えとともに、確かさを得て、生きていけるのです。世界に向かって意味を紡いでいくのです。
メルロ=ポンティの意味生成はまさにそのことであり、人間は手ごたえを求めて、生を感じられるのです。
それが、人間が生きるということであり、人間の営みであり、そのことを求めて人は生きているのです。
その意味で何だっていいんです。自分にとっての手応えは、この世界とともにあるのです。