毎日の哲学の断片をつづるブログ

日々哲学することを習慣とし、思考と言葉をつづる

物書きにならざるを得ない人たち:時間と音声からの解放

人は何故ジャーナリングをするのだろうか。何故、自分の言葉をノートに書くようになったのだろうか。昔から日記の習慣はあるから、人間は、言葉を書き記す性質を持っているんだろうと思います。

 

言葉には、話すことと聞くことで成立するものと、書くことと読むことで成立するものがあります。もともとは話すことと聞くことが主体だっただろうと想像できます。鳥など他の動物も鳴き声でコミュニケーションを取っているから、その延長だろうと想像します。

 

でも、目でもコミュニケーションをとることもできます。何か印があれば、それを元に何かを伝えられます。文字はその意味で有効であったろうと想像できます。

 

音声に基づく言語処理が致命的に苦手な場合、視覚に基づく文字情報に頼らざるを得なくなります。

 

口から発せられた言葉は発せられているうちにちゃんと耳で聞かないと、消えてなくなります。

 

一方で、ノートや本に書かれている文字は基本的には消えることはありません。ですから、ゆっくりと文字を読む時間があります。時間から解放されます。

 

何か時間に追われていない限り、文字を使う場合は、ゆっくり書いてもいいし、ゆっくり読んでもいいんです。聞き逃すこともないし、聞き取り逃すこともありません。

 

だから、言葉を使うという場合、耳から入ってくる音声の言葉に頼れない人は、目から入ってくる文字の言葉に頼らざるを得ないのです。

 

物書きは、好きで物書きをやっている場合もありますが、物書きにならざるを得ない場合もあるのです。

 

目から入ってくる情報に頼っていますから、文字を使わざるを得ないのです。文字を読み、文字を書くのです。

 

何か考えるときも、何か書くことから始まります。何か書いているうちに、書き記された言葉が自分の中の何かを表し、そして、それらを起点にして考えが展開するのです。

 

頭の中はいつも理路整然としているわけではありません。何かはあるのですが、すぐに取り出せるわけではないのです。

 

ですから、何かを書くのです。何でもいいから書くのです。そのうち、自然と言葉が連なって自分にとっての意味を成すのです。

 

言語の構造主義のソシュールは言葉の体系を明らかにした人ですが、それはその後の人たちに大きな影響を与え、多くの人を助けました。

 

言葉は人間から生まれたものであることは間違いありません。ですが、万能ではありません。言葉の性質を知って適切に使えなければ、言葉によって人は苦しみ、悩み、ふさぎ込んでしまうのです。