人は「生命めいたもの」の中で生きようとするとともに、生命めいたものを自ら作ろうとする側面も持っています。そのような入れ子構造の中で生きているわけです。
自分自身こそが生命としての細胞によって構成されていて、細胞という生命によって支えられているわけです。細胞無しで自分自身は成り立たないわけです。
ですから、細胞の営みによって自分自身は生命めいた存在として今ここにいるわけで、それと同様に、自分自身の営みもまた自分より大きな存在のためにあるのです。
自分自身の営みによってより高次な存在を生命めいたものとして維持しているのです。
自分自身の営みが、自分自身を取り囲む生命めいた存在に命の息吹を与えるとともに、その命のおかげで自分は生きているとも言えます。
ですから、自分がその営みを止めれば、今自分がいる生命めいたものは生命性を失い、それとともに自分自身の生命性も危うくするのであり、だからこそ、自分たち人間は自分の営みを続けるのです。
自分がいる場所の生命性が自分自身に生命を与えてくれていることを、わたしたち人間は無意識に感じ取っているのです。
その場所の循環する生命性が自分の営みによって支えられ、また、営みの継続がその場所をより生命性あるものに、そして、自分自身もより豊かに生きやすくなるのを、生命としてわたしたちは知っているのです。直観しているのです。
そして、色んなことを営もうとします。それが何になるか、何に役に立つか、何につながるか、そんなことは分からないけれども、それでも、何かを営もうとするのです。
生命めいた気配のする営みを求めて新しいことをやってみるわけです。生命めいた循環を作り出そうとするのです。
習慣のように同じことを繰り返しながらも、単なる繰り返しで終わらずに形を変えようとするのです。
営みを増やそうとする場合もあれば、いくつかの営みをつなげようとする場合もあります。常にアメーバのように、その触手を伸ばしてネットワークをつなげていくかのように、営みのネットワークを命あるものとして広げていくのです。
それは循環構造であり、ネットワークであり、つながったりつなぎ変えたりしながら、絶えず全体としての営みを維持しているのです。
それは神経細胞のようでもあります。
自分たちの営みが別の営みとともにネットワークを作り、維持し、生命めいた全体性を作り出しているのです。その中で自分たち自身は生命として生きているのです。