毎日の哲学の断片をつづるブログ

日々哲学することを習慣とし、思考と言葉をつづる

変わりたくなるのは、当たり前の日常に埋没しているから。特別な自分を知る。

自分自身を変えたい、あるいは、自分の人生を変えたい、人はそのように望むのですが、一体自分の何を変えたらいいのか、わからないわけです。

 

自分が普段していることで生活が成り立っているわけですから、普段していることの何かを変えれば自分自身を変えることになる。そのように思いますが、一体普段していることの何を変えたらいいのか、それがわからないのです。

 

そもそも、普段していることなんて自分にとって当たり前すぎて、そのどれが自分の今の生活を形作っているのか分からないし、普段していることがどれだけ自分自身の生活あるいは人生を形作っているのか、そんなこともわかりません。

 

いくら自分のことについて考えても、自分自身を客観的に見てあげなければ自分のことはわかりようがありません。

 

ですが、自分の目は顔についていて、自分の視点は自分の外側に向いているわけですから、客観的に見ようと言ったって、そもそも難しいのです。

 

自分から見えるものと言えば、自分の周りにあるものであり、毎日似たようなことをしているとすれば、似たような景色を見ているだけです。よほど鏡がある環境の中にいない限り、自分自身なんて見ることはありません。

 

強いて言うと、周りの景色や環境を見てそこから何か自分自身を読み取ったり、周りの人との比較によって自分自身を知ったりすることはできるかもしれません。

 

ですが、同じ景色で同じ人たちに囲まれて生活をしていると、特にそれが何か特別なこととも感じられないし、自分に関する客観的な情報は入ってきているかもしれませんが、客観的な自分を知るということに関してどれだけ有用で価値のある情報なのか、よくわからないわけです。

 

ですから、ある意味において、自分のことはすでに客観的に知っているかもしれないのですが、それを特別なことと認識していないし、それが自分の生活あるいは人生を形作っているということにも気付きません。

 

実際は、自分は明らかに何らか特別な環境の中で、特別なことをしていて、特別な自分が形作られています。にもかかわらず、周りも同じように見えるから、自分が周りと同じく特別であることにも気付きません。でも、本当は特別なのです。

 

自分が今いる環境を変えれば、その環境が自分にとって変わったことは認識できるし、特別なことであることも認識できます。その環境は以前の環境と比較して違いはあるし、その違いが特別なこととして映るのです。

 

確かに環境を変えることが自分自身が変わったことを実感しやすいわけですが、それは環境が変わった時に自分の特別さや特徴が認識しやすくなるからです。

 

新しい環境が時間とともに当たり前になれば、また変わらない日常に埋没し、変わらない自分に退屈するのです。

 

自分の特徴とは何か、自分は何が特別なのか、それを知ることはひょっとしたら、自分が変われるヒントになるかもしれません。大袈裟なことではなく自分は特別で何らかの特徴があるわけですから。

 

自分を客観的に知るというのは、自分の特別さや特徴を知る。実際にはそういうことです。変わりたくなるのは、それらが当たり前になり埋没し、それらに気付かず、何も無いものと同じになってしまうからです。

 

何も無いものに対しては、手のつけようがないし、変えようがありません。環境を変えたくなるのはその特徴や特別さが一瞬浮き彫りになるのであり、本質的には、それらをちゃんと認識することなのです。