人間には目があって、色んなものを見ることができます。視覚化されたものは認識できて、取り扱うことができます。
言い方を変えると、見えないものは認識できないので取り扱うことはできません。当たり前です。
人間が見るものには、目の前に広がった視覚的なものだけではなく、自分の中に想像するイメージもあります。
人間は、自分の中にイメージを想像することができるのです。
広く捉えれば、見るものはイメージだけでなくても、抽象的なもの、概念、色々とあります。
人間は、あらゆるものを、自分の中に想像し概念化して、認識することができます。認識する能力を持っているということです。
認識できることは取り扱えますが、認識できないものは取り扱えないということです。
人は自分の認識する世界を生きています。認識するというフィルターを通してこの世界を生きているということです。
自分にとっての現実というのは、自分が認識できている世界ということです。
ぼんやりとしていると、認識できるものも認識できません。目のレンズの焦点があっていなければ、見えないものは見えません。眼鏡をかけてはじめて見える世界があるわけです。
人は現実の世界を生きていますが、その世界はどれだけ鮮明で、自分はどれだけそれを見えているでしょうか。
ひょっとしたら、曖昧な解像度のまま、言うほど見えていないのかもしれません。
人は曖昧で、具体的に見えないものは認識できないし、取り扱えません。曖昧なものを曖昧なままにしている限り、認識することはできません。実は目の前にあるのに、認識できていなくて、無いと思い込んでいるかもしれません。
現実を変えよう、世界を変えようと思う場合、人間はその対象を認識しなければなりません。
現実を変えられないと思っている場合、それは自分の認識している現実が曖昧なのかもしれません。十分に、現実を認識できていないのかもしれません。
それは単に、よく見ていないのかもしれません。目を凝らしてみればそこにあるものが、ぼんやりしているために、見えていないだけかもしれません。
人は認識できれば、それを扱い、変えることができます。
あいまいなままにせずに、よく見て、具体的にする。具体的にして鮮明にする。手に取って触れるようにする。そのようにして、認識の精度を上げていくのです。
わたしたちの認識は、意外とぼんやりしているのかもしれません。気付いていないだけかもしれません。
ですが、現実を認識できれば、状況を変えられるかもしれません。