この世界は、本当に様々な知識があります。あらゆる知識のどの知識を学び、自分の身にするかで、ものの見方が変わります。
ものの見方だけでなく、体験そのものが変わります。
人は基本的に認知してそれをフィルターとして生きていますから、知識は認知に関わってきます。体験は、基本的には主観的なものですが、認知に基づいていますから、どのような知識の体系を持つかが、体験そのものに影響を与えることになります。
もちろん、知識だけではありません。知識によってこの世界に対する理解を修正し、更新していくことによっても、認知は変わってきます。
人間はただ知識をインプットするだけではなく、自分の頭で考えて、編集し直して、自分なりの理解に書き換えていくことができるわけです。
同じ知識を得たとしても、その知識をどのように解釈し、援用し、自分のこれまでの理解に組み込んでいくか。これによって、理解している内容は全く異なります。
そのようにして認知機能によってくみ上げた主観的な世界が、自分にとって生きにくいものであれば、体験はつらいものになります。
仮に、今日の出来事が同じものであったとしても、自分がどのようにその出来事を認知し体験するかによっては、全く異なる出来事になってしまうということです。
出来事とは、ここでは現実と言ってもいいのかもしれません。同じ現実でも、自分の認知によっては異なる体験になってしまうということです。
認知は、人間が生きていくための機能の中枢ですから、それを常に調整することが重要なのです。もちろんそれには、身体のコンディションもとても重要です。
この世界で生きていこうとするとき、その意味では、自分がどのようにこの世界を理解しているのかを、積極的に修正し、調整することが大切かもしれません。
人間もすべての生き物と同じく、ユクスキュルの環世界を生きているわけです。自分たちの持つ感覚器官を通して作り出した世界を体験し、生きているのです。
どのように知識に接し、取り込み、学習していくか。身体に基づく学習も同様です。
そして、それらをどのように消化していくか。自分の頭を使って、検証し、振り返りながら、修正する。
そのようなことを常に行いながら、認知を編集していくことで、体験そのものを変えていくのです。
人間は、体験は変えることができます。ただそのままに世界を見るのではなく、積極的に認知に関わりながら体験を変えていくのです。