そもそも、実存主義の観点から、人間には生きる理由はないのです。生きる意味や生きる理由とは関係なく、自分はすでに生きているわけですから。
そのように考えると、本来は、自分でどのように生きていくか、なんてことは自分で自由に決めていいはずなのです。どう生きるかの制約は基本的には無いわけですから、どう生きるかは自分の自由なのです。
ですが、現実的にはそれが難しいのです。自分で決めると言っても、人は他人と関わっています。他人との関わりの中で生きていますから、他人との関係を差し置いて、勝手に自分の人生を決められないのです。
他人との関係、他人が自分をどのように見ているか、自分がどのように生きていくかを他人は期待しているか、それらを考慮せずに、自分の人生は自分一人で決められないのです。
そのように思い込んでいるのです。自分以外の他人の考えや期待を自分に内面化していて、それを考慮すること無しに何も決められないのです。
この内面化、あるいは、この思い込みは強力で、これを退けることはできません。退けることはできないと信じているのです。頑なに信じているのです。
そして、そのようである限り、人は決して自分のことを自分で決められません。自分で決められない理由は、いくらでもそこから調達できます。
自分のことを自分で決めることは困難ですが、自分で決めないことは簡単です。
ですが、それでは不自由のままです。自分で自分のことを決められないわけですから、苦しいままです。
本来は、自分の人生は自分のことですから、自分で決めていいのです。自分で決められるのです。ただ、自分の中に内面化したものによってコントロールされて、自分では決められなくなっているのです。
自分の中に、自分では決められなくなっている内面化したものが存在していることを知らなければなりません。
日々の細かなことは、案外自分自身ではなく、自分の中の内面化した他人によって決めています。
ですから、まずは、自分が内面化しているものに囚われていることを知ることです。そのことに気付くことです。
実は、自分が決めることを妨げているのは他人ではなくて、自分の中に内面化した他人です。
そのことにちゃんと気付いて、ひとつずつ確認していくのです。それは自分の考えなのか。自分はちゃんと自分で決めているのか。自分は本当は違うことを望んでいるのではないのか。
長い時間をかけて内面化してきたものから距離を取って、自分で決めていくのは簡単なことではありません。
ですが、自分のことを自分で決めていいのです。自由に決めていいのです。