毎日の哲学の断片をつづるブログ

日々哲学することを習慣とし、思考と言葉をつづる

歴史という構造の世界を私たちは生きている。

歴史というものは、結果としてそのようになった痕跡のようなものであり、そこにあらかじめ理論や法則のようなものはありません。

 

生物の歴史であれ、人類の歴史であれ、何であれ、「史」のつくものは全て、何らかの時系列的な軌跡であり、痕跡であり、過去として振り返って辿るものです。

 

作業としては、データとして使えるものをすべてひとつずつ拾い上げ、それらを年代別あるいは時系列として並べることであるわけで、それを歴史として扱うわけです。

 

その意味では、データとして拾い上げる限りにおいて歴史としてその形が与えられるのであり、歴史を形作るパーツあるいは断片としてのデータが全てを網羅していないのであれば、歴史の形は本当に正しい歴史なのかどうかは分からないわけです。

 

さらに言うと、歴史というのは、痕跡としてのデータをどのように拾い上げるか、また、どの痕跡をデータとして採用するかによって形作られるのであり、どのデータが歴史としてのデータであるのか、そもそもそれはデータなのか、そういった観点がその歴史を大きく左右するわけです。

 

そのように考えると、どのようにしても、全ての痕跡を歴史のデータとして拾い上げることはできないのです。

 

その意味で、歴史とは、どのように切り取り、どのように張り合わせ、どのように並べるかが重要であり、それよりも前に、どの痕跡を拾い上げるかが重要だということです。

 

とは言え、無秩序で、ランダムで、意味のない痕跡から、何も考えずにただ歴史を形作るのは困難であり、やはり、痕跡としてのデータをどのように取り扱うかという観点が必要なのです。そうでなければ、歴史なんてものは形作られないわけです。

 

歴史は、科学の中でも代表的なものであり、また、科学としては原始的なものであり、わたしたち人間がデータとして認めたものから作り上げる歴史という科学であるわけです。

 

とは言え、そのことに意味がないなんてことはなくて、歴史という創造物、あるいは、構造物を設計し、建築することによって、この世界を確かに捉え、それを基盤として、礎として、人々は生きていくのです。

 

わたしたちの見る構造とは、実物として現れるだけではなく、歴史という形でも構造物として現れるわけです。

 

実体あるものとしての姿・形を現わさなくても、わたしたちの創造する、あるいは、想像する構造が、ランダムで無秩序なモザイク状の断片から、私たちが暮らす、住む、過ごす、生きる世界を与えてくれるわけです。

 

そのようにして、わたしたちは、時間軸の中で、構造を持って、この世界を生きているのです。