ジャーナリングは、ちょっとしたノートとペンさえあれば、どこでもできるし、いつでも始められます。ただ単にペンでノートに言葉を書いていく作業なので、簡単に、そして、確実になされるわけです。
ノートとペンという条件がそろってしまえば、もうすでにノートの上で自由というわけです。何も書かれていない、白紙のノート上では、何を書いてもいくら書いても全く問題ないわけで、あとは確実に自分の言葉がそこに書かれているわけですから、その条件においては完全に自由ということです。
その意味で、確実性というのは、自由が与えられるというようにも考えられます。ジャーナリングという作業が不確実であれば、そこにノートとペンという条件がそろってもジャーナリングのプロセスが進むかどうかは分からないわけです。
せっかくノートの上に自由があるのに、ジャーナリングが不確実であるがゆえに自由ではないわけです。
とは言えジャーナリングはただ書くという行為で成り立っているのであり、自分の中から湧いてきた言葉を言葉としてノートの上に表すだけですから、それさえできてしまえば、確かにもう自由と言えるわけです。
そこには、特に何の制限もありません。ただ思ったことを書くだけなんです。そこには、自由な空間が広がっていて、そして、自由な時間があるわけです。
ジャーナリングという確実性によって、そこには言葉の自由が実現して、言葉がノート上に書き出されていくわけです。
言葉が自由自在に生成して、生成される文章は自由に創造された産物であり、無限の創造性がそこに開かれているわけです。
そこでは、生成されていく言葉の列がどのように展開していってもいいんです。あらかじめ設計図なんてないわけですから、何かをなぞっていく制限なんてないし、ただただ無限に広がっている白紙の上を走り回ったらいいんです。
振り返ったときに、何らかの軌跡が残るわけで、それをもう一度辿ることでそこから何か意味を読み取ることもできるし、そもそも、読み取ろうとしなくたっていいんです。
ただ、言葉とともにその辺りを駆け回って、時には立ち止まりながらも、方向を変えてもいいし、付近を深く掘っていってもいいんです。
そこに、自由な空間が広がっていて、自由な時間が与えられているわけですから、あとはジャーナリングという確実なプロセスとともに、自由に駆け回ったら良いんです。
そこで生成されていく言葉は、自由そのものであり、創造の産物なんです。