人は美味しいものが大好きな生き物です。食べ物を食べるとは、美味しいものを食べるということなんです。
実際この言い方は語弊があって、食べ物を食べるとは、美味しいものを食べるということではなく、単に食べ物を食べるということであって、美味しいかどうかは二の次なのです。
ですが、現代の人間は、美味しい食べ物を食べたいと思うのは当たり前と思っていて、わざわざ美味しくない食べ物は食べないわけです。
美味しくない食べ物を食べるというのは、健康のためであって、身体のためだと思って食べるわけです。
そうでなければ、基本的に、人は美味しいものを選んで食べるわけです。
ですが、本来人間は、美味しい食べ物を食べる以前に、生きるために食べ物を食べないといけないわけで、栄養のために食べ物を食べないといけないわけです。
人間はまず生存するという目的がありますから、その目的のために食べ物を食べるのであって、美味しいかどうかは実際には重要なことではないんです。
美味しくなくてもその食べ物に栄養があるなら、それを優先して食べるべきなんです。生存するという目的においては、美味しいかどうかなんて重要なことではないんです。
ですが、現代は、美味しい食べ物を食べるということが当然であって、美味しくない食べ物はわざわざ選ばないし、選ぶ必要もないし、その意味で、現代のわたしたちにとっては、食べ物は美味しくあるべきなんです。
食文化の歴史の観点から考えると、人類にとっての食べ物は、最初は生き残るため、栄養のために食べてきたはずで、美味しいかどうかはその後に発展したはずです。
まず、栄養のための食べ物があって、次に、美味しい食べ物になったということです。
もちろんその発展に明確な区切りはなく、段々とそういう流れになっていったんだと思います。
食文化を例にとると、人類の発展には、まず生存の目的があって、その目的が達成されると、快という目的があるということです。
美味しいとは、快の一形態であるわけで、喜びとか幸せとか、そういったことに快は関係しているわけです。
食べ物の分野だけでなくても、あらゆる分野は生存の目的から快の目的に発展していると思います。感覚や感情を伴うものの多くは快につながるものであり、食べ物の他にも、音楽やあらゆる芸術や、スポーツもエンタメも、人間の快に関係しているように思います。
一方で、他の多くの分野には生存を目的にするものがまだ多くあります。
人間はどうしても、生存の目的を快の目的に対して優先してしまいますからしょうがないですが、生存の目的は喜びや幸せを直接もたらしませんから、やはり快の目的を持たなければ、人間は生きづらいわけです。
とは言え、食べ物をはじめとして、人類は多くの分野で快の目的に到達している文化を持っていて、そういったものを体験することで、人間は随分と生きやすくなり、幸せを感じて生きているようになったとも言えるわけです。