毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

自分が設定した「勝ちに行くゲーム」をプレイして生きる。

人は自分の人生をゲームのように捉えて生きていくことができます。

 

人間は主観的な生き物ですから、この世界に対しては、自分なりにどう捉えて、どう解釈するか、そして、どう理解するか。そのようにしてしか世界は捉えられないのであって、自分にとって完璧な世界なんてありません。

 

ですが、そうである限り、どのように世界を捉え、あるいは、切り取り、自分なりの世界とするか、それは自由なんです。

 

自分の設定するゲームはひとつとも限りません。いくつ持っていてもいいんです。あくまでゲームとして設定しているわけで、ゲームの中でプレイに失敗しても本当に死ぬわけではありません。あくまでそれは設定したゲームであり、何度でもチャレンジすればいいんです。

 

ですが、せっかく自分で設定したゲームなんですから、やっぱりそのゲームで勝ちに行くほうがいいんです。今は負けているゲームだとしても、いずれ挽回して勝ちに行くんです。

 

自分で設定しておきながら、そのゲームで負けたまま続けてしまっているのではあれば、そのゲームはやめてしまえばいいんです。負けたままだと分かっているゲームは続ける必要はありません。さっさとそのゲームから降りるんです。

 

自分で設定するゲームは、たとえ今負けていたとしても、いずれは勝つ。勝ちに行くゲームであるべきです。ゲームは勝ちに行かないと面白くないし、勝ちに行かないゲームは自分にとってのゲームではありません。

 

ゲームは物語です。

 

自分の人生のゲームは、自分の人生の物語なんです。

 

自分で物語を設定したり、見出したりして、それで生きていくんです。物語は平坦なものではなく、でも、きっと何かしら使命のようなものがあるのかもしれないし、それにチャレンジして、乗り越えようとするんです。

 

物語は、ジョーゼフ・キャンベルの言う神話の構造でできているんです。その物語では自分は英雄であり、英雄は苦難があってもそれを乗り越えて、何かを得るんです。

 

自分のゲームですから、ゲームはそのようであるべき、そこから何も得られないゲームをわざわざプレイする必要はないんです。

 

人には、そのようにして、自ら自分の人生から自分のゲーム性を見出し、そして、自分のゲームを設定することができるんです。その意味において自由です。

 

簡単なゲームをただ設定してもそれはゲームにはなりません。ですが、自分なりに自分のゲームを設定して、勝ちに行くんです。

 

そういうゲームは必ずあるし、見出せます。自由に設定できるんです。