人間は社会の中で生きています。社会の中に身を置いて、自分自身を発達させ形成させます。そのようにして形成した自分は内面に形成され、常に自分を見ています。
社会の中に自分がいるように、また、社会が自分をいつも見ているように、自分は自分を見ているわけです。
自分の目は自分の中にあるわけですが、その目は社会の目のように自分を見ていて、自分を監視するように見ているわけです。
自分がただ自分をみているだけではあるものの、その目は監視する目です。実際の自分の目は社会を見ているわけですが、同時に、自分では気付いていない内面の目は、社会の目に成り代わって、自分を監視しているわけです。
それも厳しく監視しています。
長い間社会に身を置いているがゆえに、そして、社会の厳しさを自ら体験してきたゆえに、その目は厳しい目となって自分自身を見ているわけです。
自分はそのつもりがなくても、無意識に厳しくなっているんです。
自分は社会の中で十分であるかそうでないか、いつも見ています。社会に対する目と同じく、自分を見ているわけです。
自分が十分でないかどうかは自分がよく知っています。社会に対する厳しい目と同じく、いつも自分に対しても厳しく見ていますから、自分が十分でないかどうかはすぐに分かるわけです。
そして、他人から否定されることをいつも恐れている自分がいます。否定され、責められる事を恐れている自分がいます。
他人がいつも自分を厳しく監視していることに怯えているわけですが、その目が自分の中にあることには案外気付いていません。
自分が少しでも十分でなければ、そんな自分を監視する目は許しません。自分こそが自分自身を許さないのです。
自分が知らないうちに、自分の中に育った社会の目は、厳しく、そして、疑り深く自分を監視し、機会さえあればすぐに責め立てます。
いつまでも、責め立て続けます。覚えている限りいつまでも責め立て続けるのです。
ですが、あるとき、社会の監視する目が自分の中にある事に気付かなければなりません。
もはやその目は自分自身を自由にしません。束縛したまま、自分はただ疲弊しているだけです。
いつの間にか育ってしまった監視する目が内蔵されていることに気付かなければなりません。
すでにその目は役に立ちません。育ったその目は今まで何か役には立ってきたのかもしれません。ですが、おそらく、とうの昔にその役割を終えています。
もう役割は終わりです。もう、監視する目から自由になっていいんです。