人間には目があります。周囲を見る「目」を持っています。人間の目は何かを見ていて、視線をその先に送っています。そのような「眼差し」というものを持っています。
人は眼差しを想像する特性を持っています。無意識に想定するわけです。脳が行っている自動予測です。自動予測によって、人は眼差しを送っている、そして、眼差しを自分に向けていると想定するのです。
そして、自分は見られている、と無意識に想定しています。自分の内蔵された仕組みとして、他人の眼差しが自分に向けられていることを想定するのです。
特定の誰かに、自分への眼差しが向けられている、と想定しているわけではありません。もっと曖昧に、周囲全体から眼差しが向けられていると想定しているのです。
もっと言えば、具体的に、周囲の人たちから眼差しを向けられていると想定しているわけでもないかもしれません。自分の中の他人あるいは周囲が、自分に眼差しを向けていると、想定しているのかもしれません。
そのような内面に発達している仕組みが、無意識にそのように発動しているのです。
他人からの具体的な眼差しを超えて、自分の内面に形成した他人や周囲からの無意識の眼差しによって自己を発達させてきたわけです。
ですから、自ら自己を確立しているのではなく、周囲の中の自己を確立しているのです。
ある意味において、自己は空洞です。他人や周囲があって、その中で自己が形成されているのであって、他人や周囲のないところに自己は形成されません。その意味で、他人や周囲の中に空洞から、自己が浮かび上がっているのです。
他人や周囲という森の中の池かもしれません。池そのものの水面には何もありませんが、周辺の木や林がその水面に映し出されているのです。
鏡のようなものかもしれません。内面化した周囲を映す鏡です。
確かに、人間はそのようにして自己を確立するのかもしれません。発達段階においてはそのような仕組みを持っているかもしれません。
自分の中に取り込み、内蔵された周囲を想定する仕組みによって、自己を形成させているのです。
ですが、内面は発達します。自分の内側へ、さらに発達が進行します。
他人や周囲によって映し出された鏡の姿として形成された自己の内側に、さらなる自己を形成していくのです。
映し出された自己を乗り越え、書き換え、真の自己に自ら生まれ変わる時が来るのです。
内面化された周囲からの監視の眼差しから、自分の眼差しを持つようになるのです。