人間にとって手に取って触れるものは確かに実体で、概念は実体ではない。確かにそうです。
概念は実体ではないんです。目の前に有るものこそが事物であって、実体なんです。
ですが、人間は認知する生き物であり、自分自身が身体のどこに主体があるのかというと、身体自身とも言えますが、身体に基づく認知するところにあると言えるわけです。
人間の脳が高度に発達しているがゆえということなのですが、人間は認知する機能が発達していて、わたしたちが自分と感じている部分というのは常に認知しているわけです。
自分は認知する主体なんです。
認知しているのは、確かに人間の発達した脳によるのであって、脳の神経に基づくことも確かであるわけです。
神経は脳を中心としながらも全身に渡って張り巡らされているわけで、神経ネットワークに基づいて認知する主体が生成しているとすれば、自分自身は身体に基づくわけです。
神経は当然皮膚表面の末端にまで張り巡らされているわけですから、手で直接触っているものは確かにそれを実体だと感じさせてくれるのであって、それが実体あるものであることは疑いようがないわけです。
一方で、認知する主体にとって、頭の中で想像すること、考える事は、認知する主体が直接関わっている事であって、発する言葉も自分にリアルに認知上感じさせるわけです。
つまり、認知においては、想像も思考も言葉も概念も、直接的なことであり、それに基づいてマインドワンダリングに陥ったり、煩悩にまみれたりすることも、直接的なことなんです。
実体を実体たらしめているのは、それが確かにそこにリアルに存在しているからであり、人間がそこに存在しようとしまいと、実体は実体であるわけですが、わたしたち人間は、認知に基づいた主観的な生き物です。
主観的である以上、認知するというフィルターを介して実世界と接しているわけですから、この観点においては、認知上のものは実体と感じさせるわけです。
想像も思考も言葉も概念も、みんな認知にとって直接的であり、実体だと感じさせるわけです。同時に、煩悩という現象も認知においては直接であり、問題となるわけです。
実体と感じさせるもの、それこそが人間にとっては重要であり、そこにある石や木が実体だとしても、認知する主体が実体だと感じるものは実体であって、想像上のものも、言葉も、概念も、実体に変わりはないんです。
認知する主体であるわたしたちは、そのような世界を生きているんです