人間にとって、日常的に気にしている事は、認知上である事が多いわけです。
常に認知的活動をして過ごしながら、何かの感情を感じたり何かの事について考えたりしているわけです。
不安を感じると、その事は認知的負荷になりますから、この負荷を何とか軽減させようと、人は何かを考え始めるわけです。
不安という感情は、確かに人間を突き動かし続ける原動力になり、それを何とか軽減させようと、思考を巡らせるわけです。高い認知負荷の状態にまで押し上げるわけです。
不安に対する解決策は色々とあって、扱える色んな事を実際にやってみて、手を打ってみて、そして、実際に不安を軽減させるわけです。
その労力がいかに大変なものだとしても、不安が解消され平穏が訪れるならば、その為に多大な労力と時間をいとわないわけです。そのくらい、人間にとって不安は回避したいものなのです。
人間には考える力があり、考えに基づいて試行錯誤して、手を動かし、足を動かして、実際に何かを実行する事ができます。
そのようにして、あらゆる認知プロセスの中で発生した事に対して、人は何かを実行し、身体を動かし、そして、問題を解決していくわけです。
常に何かを実行し、学習し、それが強化され、習慣化し、知識化されて蓄えられ、実行性を向上させるわけです。
出来る事も多様に増えるし、また、今後何らかの認知的負荷が浮上しても、その負荷を軽減させる事が出来るわけです。
身体と認知は確かにつながっていますから、認知的な問題は身体の問題とも言ってよく、その事は考えると気付く事でもあるので、認知上の問題は身体にアプローチする事も、問題の解決方法のひとつです。
もちろん、不安などの感情的な事も、身体の問題でもあるので、同様に、問題解決は身体にアプローチする事になるわけです。
感情の問題や認知上の問題は、人間にとって大きな問題なので、毎日取り組まない瞬間は無いし、その活動を絶え間なくやっているわけです。それが日常であり、日々の生活と言ってよいほどです。
手や足や目の前のものやそこに広がる世界は確かに事実としてあって、それらは手を伸ばしアプローチする事も出来て、それらを通して、自分自身の認知上の事に対して絶え間なく扱っているわけです。
不安の感情も、認知的負荷も、それらの元となる身体の問題も、全て常に問題にしながら、絶え間なく問題解決し、そのようにして生活を成り立たせているのです。
この瞬間を認知上の事として生きているわけです。