人は気が付いたら自分の物語を生きようとしてしまいます。
物語という大きな船に乗って進んでいきたいわけです。大海原を泳いでいくのは大変ですから。いつ溺れるか分からないし、いつサメが現れるか分からないからです。
ですが、絶対に安心の船なんか、実は無いんです。どんなに頑丈で大きな船でも、想定を超える大波がやってきたら、転覆して沈むんです。
だから、思わず大きな物語に乗っかって安心して生きていきたい、物語にすがりつきたい、という気持ちになってしまうわけで、それは自然でもあるわけですが、そんな絶対安心なハッピーエンドの物語なんてあって無いようなものなんです。
ですから、まずは、物語なんて無い。この事実を受け入れる事です。
とは言え、物語そのものを描く事を否定しているわけではありません。物語を描くのは人間がやる事であって、それは普通な事なのですが、それが絶対安心の物語ではないという事です。
物語は自分を支えてくれるように見えて、実は物語を支えているものは自分であるという事です。
自分は常に支えがないですから、支えの無い足場を自分でどうにかしながら進んでいくしかないわけです。
結局のところ、大海原を自分で泳いでしかなく、周りに浮いている流木でもなんでもしがみついて生きていく、それでいいんです。
いずれその流木に上手く乗りこなし、道具になり、味方になるんです。それをただ流木に過ぎないものにしておくのか、ともに生きるものにするのかは自分次第です。
流木は事実であって、それを使いこなす事を力とし、知恵にして、流木とともに生きる事も生き方であるわけですが、一方で、流木を単に大きな船に乗り込むための足場としての木片に過ぎないものにするのも、ひとつの生き方かもしれません。
流木も船も、足場である限りは常に足場であり、頼りない足場である事には変わりません。
ですが、頼りない自分自身こそが頼りないものとして、流木とともに生きる。そうしているうちに、何か力を身につけ、知恵をつける。頼りないけれども、それでも生きる。
頼りなさはいかようにも解消されないわけですが、頼りなくても生きるしかなく、でも生きているうちに、自分なりの足場を作り、もろくても、力や知恵とともに、生きていけるのかもしれません。
人は一体、何に対してならば、頼りになるのか。そんな物語はあるのか。きっとそんなものは無いんです。自分に対しても何に対しても頼りにならないのなら、頼りない自分とともに、生きていくしかないんです。そのようにして活路を見出すんです。