毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

人間は自ら創造した物語を生きている。

人間は主観的な生き物で、主観的に、現象学的にこの世界を認識する事しかできないわけですから、主観的に創り上げた想像上の世界を生きていると言えるわけです。

 

それは言い換えれば、自ら創造した物語の世界を生きているわけで、私が人生だと言っているものの骨格は、まさにこの物語から成り立っているわけです。

 

作家が創作したSFやファンタジーの物語はとても面白く、まるで自分がその物語の世界の中をリアリティを持って生きているように想像するのと同じく、私たちは各々自ら創造した物語を生きているんです。

 

ですが、私たちの想像する物語は、自分の望むように、意図的に、設計して構築するとは限らず、楽しい物語ばかりではなく、苦しい物語を生きる場合も多くあります。

 

また、その物語は、常に、物語の終わりがあるわけではなく、終わりのない、落ちの無い、物語であって、わたしたちはその物語の途中を、どうなるのか分からない途中をまさに生きているわけです。

 

とは言え、私たちは現実世界をリアルに生きているわけですから、あまりに現実と合わない物語を生きるわけにはいきません。

 

この現実世界が、自分だけの世界ではなく、他の人たちの世界でもあり、そもそも私たち人間の存在以前からある世界であるわけですから、そのような現実世界の中で、自ら紡ぎ出した物語があまりに適合しないものだったら、その物語は容易に崩壊し、壊滅的な、デストピア的な物語を生きる事になりかねません。

 

とは言え、その主観的な世界がいかに弱々しく、現実離れしていようとも、私たちの足場となる物語は、主観的でしかなく、明日も見えない不安定な物語を生きていくしかないんです。

 

その意味では、私たちは、自ら主観的な物語に、手を加えなければなりません。より厳密に、より真実性を持って、より安定した物語になるように、設計し、建設し、壊れないかどうか確認しながら、そして、絶えず建て替え、建て直し、自らの手で再構築しながら物語を紡いでいかないといけないんです。

 

それでも物語は想像上のものであり、いつだって崩壊の可能性があり、終わりもなく、ずっとその途中なんです。

 

ですが、時には、思いもしない、明るい物語が現れる可能性もあります。物語はどうなるか、いつだって分からないんです。

 

常に物語は想像上であって、固定化されない、ダイナミックな歴史の途中なんです。それは、フラジャイルだろうがなんだろうが、未来に拓かれた物語なんです。