只管打坐とは、ただ座る、という意味であって、そこに過剰な意味は求めない。そういう態度であり、生き方です。ただ座る事に意味なんて必要ないんです。
それは、心のゆとりであり、余裕であり、時間を作るという事です。余地=スペースを作るという事です。これによって、心を軽くするという事です。
生存する為に過剰に適応して、生存する為に意味のある事を追求してきたわけですが、そんな事を追求しても、恐竜のように自分たちで争うばかりになり、結局は生き場を失うわけです。
人間をはじめとする哺乳類は、恐竜や爬虫類とは異なって、背側系の迷走神経を発達させて、安心感や共感を育んできました。それが、ポリヴェーガル理論に基づいた、生物進化における哺乳類の新たな進化であり、自分の中に余裕を作り、人間社会に安心を作ったわけです。
まさに、遊びを作り出したのであり、自分の内面にも、また、自分たちの関係性にも、遊び心を作ったわけです。そこに、生産性や効率性は関係ありません。
プレイアビリティ(playability)とは、そのような文脈において、遊びの能力とも言え、この能力を人類は伸ばしてきたと言えます。
プレイアビリティを発達させてきた事によって、時間を作り、1秒を2秒に伸ばしてきたんです。1秒を2秒かけて過ごすという事です。人生50年の時代から、今や人生100年時代に伸びたわけです。
ですから、現代は、もっとゆっくり過ごしていいんです。焦らずに、時間をかけて、ゆっくり過ごしていいという事です。
目的も意味も必要なく、求めず、ただ座る、ただ在る、ただ何かをする、無意味に、無目的に、ただ何かをするという事です。
そのような方法を人類は発達させてきたんです。
確かに、クリエイティビティやイノベーションは、そのような遊び心からしか生まれません。人間の自由は、そのようにして獲得され、拡張されてきたんです。
そして、これからもそうです。もっと人間の自由は広がっていくんです。
サルトルの実存主義はまさに、その事を説明しています。意味や本質に先立って我々人間は存在しているんです。
今なお、あらゆる分野、領域は、生産性や効率性であふれています。その意味では、自由の範囲はまだ十分とは言えません。
只管打坐の精神を実践して、心のゆとりを作り、余裕を作り、時間とスペースを作るんです。心をもっと軽くして、遊び心を持つんです。
そのようにして、プレイアビリティを発達させて、時間を1秒から2秒に伸ばして、自由を大きくしていくんです。