毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

やりたい事の考え方。実は誰でもいっぱいある。

やりたい事を見つけるのは大切だと言いますが、これが難しいわけです。

 

やりたい事ですから、ただやりたいと思った事をやればいいわけですが、そのやりたい事が分からないわけです。

 

きっと、何か、やりたい事を大袈裟に取ってしまっているわけです。

 

やりたい事というのは、きっと凄い事で、大きな事が成し遂げられるような事だと思い込んでいて、勝手にハードルを上げてしまっているわけです。

 

そのようにハードルを上げてしまっているから、ちょっとやりたいと思っても「どうせそれはできないな」と諦めてしまうわけです。

 

そして、やりたい事に意味を求めて過ぎてしまうわけです。

 

それを何となくやりたいけど、それをやっても意味があるとは思えないから、それは違う、と、勝手にやりたい事の判断をしてしまっているわけです。

 

やりたい事に、意味は必要ないんです。何か高尚な事である必要なんかないんです。

 

むしろ、やりたい事に意味は必要ないんです。もっと言えば、やりたい事に意味は無くていいんです。

 

やりたい事というのは、意味よりも先にあるはずです。意味があるから、それをやりたい、というのは、やりたい事ではありません。やりたい事が先にあって、その後に意味が生じるんです。そして、意味は生じる必要はないんです。

 

やりたい事はただやりたいからやるのであって、それに凄さは必要ないし、意味も必要ないんです。

 

コーヒーを飲みたいからコーヒーを飲んでいるわけで、その時点で、コーヒーを飲む事はやりたい事なんです。

 

大袈裟に考えているから、コーヒーをただ飲む事を、やりたい事のうちにカウントしないんです。

 

コーヒーを飲みたくて飲んで、コーヒーを飲みたいから喫茶店に行って、コーヒーを豆で飲んでみたいから豆を買ってきて、自分で淹れてみたいから、手挽きコーヒーミルを買ってみるんです。

 

そうやって、やりたい事というのは、そのようにただ広がって膨らんでいくのであって、それで十分やりたい事は成立しているんです。

 

きっと、やりたい事というのは、やっていて楽しい、また、面白い事なんです。面白いからやってみるわけです。それで止めてもいいし、面白いからもっとやってみたいと思えば、その時またやればいいんです。

 

別に、継続性も要らないし、レベルも関係ないし、意味も関係ないんです。ただそれをやってみたくて、面白くて、それだけなんです。

 

やりたい事とはそんなものであって、そのように考えると、案外、やりたい事はいっぱいあるんです。