毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

美しさに満ちている。意味や価値の過剰さが人を盲目にする。

山や森などの自然を見ると、確かにその景色は美しいわけで、でも、だから意味や価値があるのかというと、そういうわけではありません。

 

意味や価値があるから美しいなんて事は無いし、意味や価値よりも先だって美しいものはあるんです。

 

その意味で、美しさに理由なんて無く、いくらその美について批評しようとも、それより以前に、美しさはそこに在るんです。

 

自然などは良い例として、美しいものはどこにでもあり、身近にもあります。それに気づくかどうかその人次第ですが、それに気づく事ができれば、それは喜ばしい事であり、幸せな事です。

 

美しさはそのようにして見出されるものではありますが、とは言え、そのような美は見出されるよりも先に存在しているわけです。

 

気付くか気付かないかに関わらずに、そこに美はあるんです。ずっとそこに美しく存在していたんです。ただ、気付いていなかっただけなんです。

 

毎日は、気づきの連続ですが、昨日何かに気付いて驚いたのに、今日また別の事に始めて気付いて驚くわけです。気付いても、気付いても、きりがないほどに気付く事はたくさんあるんです。

 

その意味で、人は色んな事に全然気づいていないんです。色んなものは、そこかしこにあるのに全然気づいていなくて、そして、毎日のようにはじめてであったかのように気付いては、いちいち驚いているわけです。

 

美しいものをはじめとして、いろんなものはたくさんあります。ただそこにあります。何気ない事であり、別に意味や価値を持ってそこに在るわけではないんです。

 

ただ石ころが転がっているように、ただ山があって川が流れているように、ありとあらゆるものはただそこに在るんです。

 

その事を特別な事ではないんです。

 

それが特別かどうかは、人間次第なだけなんです。

 

人は盲目ですから、色んな事に気付かないし、それどころか違うところを見ていて、きょろきょろと落ち着かず、視界に入っても気付きもしないんです。

 

ですが、意味や価値への過剰さが、見えるものも見えなくして、盲目にして、取りつかれたように必死になって、そして何も無いと信じ込んで、へたり込んでしまうのです。

 

そうではなく、ただ、意味や価値などに過剰にならずに、また、無理に意味や価値を見出そうとしなくていいんです。

 

ただそこに在るものを見て、それは実は美しいんだという事にただ気付く事です。美しいものに限らず、すべてはそこにあるし、あらゆるもので満ちているし、それらは意味や価値に支えられてはいないんです。