山や森などの自然を見ると、確かにその景色は美しいわけで、でも、だから意味や価値があるのかというと、そういうわけではありません。
意味や価値があるから美しいなんて事は無いし、意味や価値よりも先だって美しいものはあるんです。
その意味で、美しさに理由なんて無く、いくらその美について批評しようとも、それより以前に、美しさはそこに在るんです。
自然などは良い例として、美しいものはどこにでもあり、身近にもあります。それに気づくかどうかその人次第ですが、それに気づく事ができれば、それは喜ばしい事であり、幸せな事です。
美しさはそのようにして見出されるものではありますが、とは言え、そのような美は見出されるよりも先に存在しているわけです。
気付くか気付かないかに関わらずに、そこに美はあるんです。ずっとそこに美しく存在していたんです。ただ、気付いていなかっただけなんです。
毎日は、気づきの連続ですが、昨日何かに気付いて驚いたのに、今日また別の事に始めて気付いて驚くわけです。気付いても、気付いても、きりがないほどに気付く事はたくさんあるんです。
その意味で、人は色んな事に全然気づいていないんです。色んなものは、そこかしこにあるのに全然気づいていなくて、そして、毎日のようにはじめてであったかのように気付いては、いちいち驚いているわけです。
美しいものをはじめとして、いろんなものはたくさんあります。ただそこにあります。何気ない事であり、別に意味や価値を持ってそこに在るわけではないんです。
ただ石ころが転がっているように、ただ山があって川が流れているように、ありとあらゆるものはただそこに在るんです。
その事を特別な事ではないんです。
それが特別かどうかは、人間次第なだけなんです。
人は盲目ですから、色んな事に気付かないし、それどころか違うところを見ていて、きょろきょろと落ち着かず、視界に入っても気付きもしないんです。
ですが、意味や価値への過剰さが、見えるものも見えなくして、盲目にして、取りつかれたように必死になって、そして何も無いと信じ込んで、へたり込んでしまうのです。
そうではなく、ただ、意味や価値などに過剰にならずに、また、無理に意味や価値を見出そうとしなくていいんです。
ただそこに在るものを見て、それは実は美しいんだという事にただ気付く事です。美しいものに限らず、すべてはそこにあるし、あらゆるもので満ちているし、それらは意味や価値に支えられてはいないんです。