毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

意味や価値に囚われずに、ただやっている事実で十分。

人はそもそも意味や価値に支えられないわけですから、何をやるにも意味や価値なんて考える必要はないんです。

 

意味や価値は無くても全然問題ないんです。ただ、それをやりたいからやればいいし、それに意味や価値は要らないんです。

 

それを楽しいからやればいいし、さらに言えば、楽しくなくてもそれをやっていていいんです。やってもやらなくてもどちらでもいいんです。そこに意味や価値はないんです。

 

人は気が付いたらそれをやっているし、それで十分です。

 

また、人はそれを必要だからやっているし、やっている事自体それで十分なんです。

 

それをやっていれば段々とそれが面白くなる場合もあるし、そんなに面白くならなくてもそれで問題ないんです。

 

面白いからやってみて、面白くなくなってきたからやらなくなる。それでいいんです。そこに意味や価値はないんだから、どっちでもいいんです。

 

やっている事に意味を感じられるなら、それをやり続けるモチベーションになります。その意味で、意味を感じられる限り、続けていったらいいし、そもそも、意味が無くてもやって良いわけですから、意味を感じられるならきっとやり続け易いだろうし、その限りにおいて、やっていったらいいんです。

 

そして、意味を感じられなくなったら、その時やるのを止めたら良いんです。

 

そのようにして日常は確かに作られているし、日常自体は特に意味や価値によって彩られてはいないし、その必要もないし、ただ必要で日常としてやっている事も多いだろうし、そうでない事を含めても、日常は確かにそのようにして作られているんです。

 

日常は意味や価値のある事で形作られている必要はなく、ただやっている事で日常は成り立っていて、それが自分の生活であり、暮らしであって、それで良いも悪いもなく、意味も価値も無くていいんです。

 

それらをやっている事実が、確かに今の自分を成り立たせているし、その事は確かに尊いように思えるし、でも、だからと言って、それが意味や価値があるから尊いとか、そんなことではなく、ただ事実として尊いのではないか、ということであって、尊いから意味が価値があるかというと、別にそういう事では無いんです。

 

そう感じるなら、ただ尊いのであって、ただそれだけの事です。

 

それを大切にしようがしまいが、どっちでもいいわけですが、確かにそのようにして自分は日々を過ごし、暮らし、日常を作り出しているわけです。

 

それは確かであり、事実ではあります。それでいいんです。