毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

自分は実体なく今まさにここにいる。

自分が、常に動的に変わり続けているとして、自分以外の、自分を支えてくれている、あるいは、自分に関わっている何かによって生まれていると、自分について考える事は出来るだろうか。出来るような気がする。

 

自分は確かに自分の身体から成り立っていますが、自分の身体に支えられ、自分の身体との関わりによって「自分」は今ここにいると捉えるならば、確かに、上に言ったように、自分は一定の状態として、また、結晶化したように固まった自分自身として、そこにずっといると考えなくても、自分は成立するように思います。

 

身体がそこに単体としてあれば、すなわち、そこに自分が居るのか、というと、そうではない、という事を上での話は言っているわけです。

 

自分の身体そのものが自分である、というわけではなく、あくまで、自分の身体から自分は発生しているわけで、完全に自分の身体と自分とが重なって一致するわけではないという事です。

 

自分の感情によって、「自分」は揺さぶられ、違う事に注意を向けさせられるわけで、自分はその意味で、変化を受けやすく、一定の状態に留まりにくいわけです。

 

これまでの話を、そのまま捉えれば、自分とは本体がなく、実体がないわけです。常に、自分以外の何かによって生成していて、常に移り変わる自分がそこに居るわけです。

 

それは、ほとんど、意識についての話をしていて、自分はこの場合、意識の事であり、そして、認知の活動の主体の話でもあるわけです。

 

脳を中心とした神経細胞から成るネットワークは、自分を生み出す重要な実体と言えるわけですが、それ自身がすなわち、自分とは言えないわけで、この神経ネットワークの絶え間ない活動によって創発的に生み出されたものが、自分というように捉える事は出来るわけです。

 

それは、常に実体としての神経ネットワークから生まれているであり、自分は意識といえるわけで、そこには、実体や本体のようなものは無いという事です。

 

ですから、神経ネットワークの活動が無くなったら、きっと意識は失われるだろうと思うし、同様に、自分は失われるだろうと思うわけです。

 

そのようにして、身体に支えられ、身体との関わりによって、また、身体に基づいて自分は今生成しているのであり、自分は一定の状態ではなく、身体の活動と同様に、神経細胞のネットワークの活動によって、常に変わり続ける実体のない、本体の無い状態として創発的に生じているのであり、今まさに動的にここにいるわけです。