人はそれぞれ自分自身の認知システムを持っています。そもそも、認知システムは、年齢とともに発達していくのであり、自己という認知が生まれるのはその過程におけると言えます。
そもそも、人間には認知システムが備わっているわけですから、生まれてからすぐに周りの環境からの情報を取り入れて、それを自らの認知システムに組み込んでいくわけです。
外側の世界に接すると同時に、それを自分の認知システムとして反映して取り入れていくわけで、最初の段階として、そこに自己と世界の区別なんかありません。そもそも、最初から自己なんて無いわけですから。
だから、外の世界との区別が無いのと同様に、他者との区別も有りません。他者と自己の区別なんか関係なく、認知システムは形成していくわけです。
そして、だんだんと、世界との境界線、他者との境界線を、自己との間に作っていくわけです。自己としての認知システムが形成されるのは、その後なんです。
ですが、自己としての認知システムが発達し、形成されていくとともに、あるいは、自己という内部に、認知システムが内蔵されていくとともに、さらに外の世界との接触は継続していくので、認知は自己として内側に、他方で、世界に対する認知も形成していくわけです。
主観性という言い方をしても良いと思いますが、主観的な世界は、外の世界を自己の認知のフィルターを通して自ら形成しているわけで、現実世界と完全に一致するわけではありません。
人間は、現象学的にそのようにしてしか世界を捉える事はできないわけで、それも、人間の認知システムがそのようにしているわけです。
自己と言う認知は、自らの認知活動を常に行っていて、一個人としての人間が生きているというのは、まさにこの認知活動そのものと言えるわけで、「私」を形成しているものは、自己としての認知活動の主体と言えるわけです。
この見かけ上そう見える認知活動の主体としての「私」は、とは言え、永久不変の実体というわけでもなく、そこに変わらない本質といったものがあるわけではなく、その意味では、諸法無我としての無我であって、ただ、認知の機構に基づいて、世界と接しながら、それらを原因として、仏教の言葉で言えば、縁起として、つまり、世界との関わりを原因にして、生成した私であって、常に変わり続ける動的な私であり、そのような私としての認知活動を続けているわけです。
常に変わり続ける自分でありながら、私として認知活動を続けているわけです。