人のポテンシャルなんて、いつどこで現れるかなんてわかりません。
自分が何かをやって何かを為しているわけですが、その事実が、自分の何に基づいているかは、案外分からないものです。
自分の何らかのポテンシャルを発揮しているんでしょうけど、それは一体何なのか分からないんです。
でも、確かに、自分が何かを実現しているわけだから、それは自分によるわけで、自分何かしらの力が発揮されているわけです。
それは偶然でも何でもなく、確かに自分の行為によって為されているわけです。
因果関係は確かにあって、自分の何かしらに原因があって、その原因によって結果が導かれているわけです。
昨日もそれが出来て、今日も出来て、何度やってもそれが実現されるという事は、確かに自分自身の何かによって為されているわけです。
その意味で、人には、何かを為し、実現する力を持っています。その力は発揮するポテンシャルがあるという事です。
分かりやすく、何かが自分の手で実現されれば、自分にはその力があり、そのポテンシャルがあるという事が認識できるのですが、それが実現されるまでは、自分にそのポテンシャルがあるのかどうか、分からないわけです。
とは言え、後になって事実として現れようが現れまいが、何らかのポテンシャルはあるわけです。
一体、そのポテンシャルが、どのような形で現れるのか、現れるまでは分からないわけです。
人は、目に見える形で、そこに形が現われなければ、そこにそもそもポテンシャルがあったなんて、信じる事はできません。
人は目に見えるものしか信じる事が出来ませんから、それは確かにしょうがありません。
人は、ポテンシャルを備えています。それがどのような形として現れるかは分かりませんが、ポテンシャルはあります。
そのポテンシャルがどのようにして現れるかは、箱を開けてみなければ分からないんです。開けてはじめて、何が入っていたのか分かるわけです。ですが、開ける前では、いかようにしても、分からないんです。
ポテンシャルは、やはり、発揮したいし、それによって何かを実現したいし、箱の中身は確認したいんです。
ポテンシャルはそこにあるわけだから、何とかあれこれ手探りしながら、試行錯誤しながら、ああでもこうでもないと言いながら、何とかしたいわけです。
今、人は何かをやっていて、それが一体何になるのか、そんな事は分かりません。ですが、そこに既にポテンシャルは備わっています。
そこに事実として現れてはじめて、そのポテンシャルは信じられるんです。