自分はどのような世界を生きるのか。それは、きっと人によって違います。
人はこの世界の中で、上手く生きていけるように自分を適応させて生きていくわけです。
一体、この世界とはどのような世界なのか。
これを掴むのは実際には難しいわけで、自分なりにこの世界を掴んで、自分なりにこの世界を捉えて、捉えた世界の中を生きていくわけです。
人間は主観的な生き物ですから、実際には、そこにある世界を掴むというより、自分なりに世界を捉えるわけで、こちらの方が真実に近いわけです。
その意味では、この世界は、人によって様々であって、人の数だけ世界がある、と言っても過言ではありません。主観的な世界、という限りは、人間が多様であり、同じ人間が2人といない、ということであればそうなります。
ですから、主観的に、自分の世界を捉え、捉えた世界に対して、自分がどのように適応していくのか、そのようにして生きていくわけです。
そのように考えると、人はそれぞれ、自分の捉えた世界を生きていく事になります。隣にいる人と、同じ世界を生きていくわけではないのです。自分の捉えた、自分だけの世界を生きていくという事です。
それで人間は生きていけるのか、という事ですが、生きていけるかどうかそれは分からないですが、結局のところ、そのようにして生きていくのです。
とは言え、全く違い世界をそれぞれ生きているかというと、そうわけでもなく、この情報化された世界では、取り入れる情報は似たようなものですから、似たような世界を生きていくとも言えます。
とは言え、情報がいくら共有されるものであったとしても、情報も多様であり、世界は多様である事は変わりはなく、人それぞれ、捉えた、あるいは、捉えてしまった世界に適応して、違う生き方をしていくわけです。
主観的である以上、自分のものの見方や性質が反映しないわけにはいきません。自分がそういう性質だから、そのような世界を生きる事になる、とも言えます。
自分の身体の性質も関係あるかもしれません。自ら作り出した世界を、自分は世界だと信じ、そして、その世界に適応するのです。
そのようにして適応する世界も、不変ではありません。自分の主観性に基づく限り、自らの変化とともに世界も変化するのです。
自分がこの世界をどのように捉えるのか、自分の性質すらも反映するこの世界ですから、自分次第で世界は変わりうるのです。
自分がどのようにして生きていくかは、いかに適応しなければならないとしても、自分次第と言えるわけです。