毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

人生の一切を結局は引き受けざるを得ない。

結局、人は自分自身の事について全て引き受けるということなんだと思います。自分に起こる一切をいずれはすべて引き受けざるを得ないんだと思います。

 

最初は、よく分からない形で、右も左も分からない形でこの世界に放り投げられるので、どうしていいか分からず、掴めるものなら何でも掴んで、しがみついて生きるわけです。

 

そのようにして、生き始めるわけです。生きる足場が分からないですから、頼れるものに一切を預けてでも頼らざるを得ないわけで、とにもかくにも何かに依存して生きていくわけです。

 

しがみつけるものにはしがみつき、頼れるものには頼りまくって生きていくわけですが、段々と、そうはいかなくなります。

 

何かに依存しきって、何かに頼り切って、誰かに甘え切って、生きていくわけですが、そうもいかなくなって、一切を引き受けないといけなくなってくるわけです。

 

どのように引き受ければいいかなんてわかりませんから、引き受けられるだけ引き受けているつもりで、でも、大部分は頼り切っているわけです。

 

上手くいかないのも、ダメなのも、自分ではない何かのせいであり、誰かのせいであり、社会のせいであり、この世の中のせいであるわけです。

 

そして、一切を、世界のせいにして生きていくわけですが、そうはいかなくなるわけです。

 

実際、世界のせいにして生きていく事は出来るし、世界のせいにしてもいいんです。

 

ですが、それでは、自分の人生になりません。手応えもなく、生ぬるく、生きた心地のしない、生きているのに死んでいるような、血が通っているのに通っていないような、そんな生を生きるわけです。

 

肉体はそこにあるし、一切を世界のせいにして、それでいつまでも、肉体が滅びるまで生きていく事は出来ますが、ただそれだけの事です。

 

ですが、いずれは、引き受けざるを得ないわけです。自分がどんな人生になろうとも、いずれはその人生の一切を自分が引き受けないといけないわけです。

 

死んだようにして生きる事も出来るし、生きた心地のしないまま生きる事も出来ます。いつまでもそうやって生きる事は出来ます。

 

どのように生きても、結局、その生を引き受けるのは自分であるわけで、生を感じようが感じまいが、全てを引き受けて生きていけばいいんです。

 

確かに、はじめは放り投げられたかもしれません。自分に何の選択の余地もなく、放り投げられるわけですが、その生を、引き受けるのは結局自分です。引き受けざるを得ないわけです。