人には望みというものがあるわけですが、その望みが望みであるのは、その望みが叶えられずにずっとそこにあるからです。その望みが叶ってしまえば、それは望みではなく実現したものであって、もはや望みではないわけです。
その望みは、明確であればあるほど、長い間その望みは望みとしてずっと叶えられないままそこにあるわけです。
望みはすぐに叶えられたなら、それはすぐに望みではなくなるわけですが、もしかしたら、あまりにすぐに叶えられたがゆえに、実はそれを望みとは認識していなかったかもしれません。
望みは、望みとして輪郭が出来て明確になるまで、しばらくは望みとして認識されないものかもしれません。
ある程度それが叶えられないままそこにあってはじめて、望みという輪郭を与えるものかもしれません。ですから、望みとは、それなりに長く叶えられずにそこにずっと在ったものと言えるかもしれません。
望みは叶えられないままずっとそこにあると、望みが叶えられない事をつらく感じるようになります。その意味で、望みとはつらさを帯びるものかもしれません。
つらさを感じる前に、望みが叶えられたなら、それは望みとして認識しないかもしれなくて、その意味で、望みとはそもそもつらさを帯びているものかもしれません。
とは言え、つらさを感じてもなお、望みを望みとして持ち続けているというのは、よほどそれを望んでいるとも言えます。
望みが望みとして長い間そこにあって、つらさを帯びてもなおそこに在る続けるものであれば、きっと、その望みは、輪郭がはっきりとし、明確なものとなり、強く刻み込まれているはずです。
もし、刻印された望みが、ある時、実現されたならば、その喜びは容易には想像できないもののはずです。
一方で、その望みが叶えられないまま、実現されないままずっとそこにあって、真に叶わないもの、実現しないものとなった時、その望みはついえるわけです。
強い喪失とともに、その望みは消え去るわけですが、それを受け止めねばなりません。
たいていの場合、望みとは叶えられないわけで、つらさを帯びるとともに、喪失を伴うわけです。
ですが、逆に言えば、それほどまでに、つらさや喪失を伴うまでに持ち続ける望みであるわけですから、それはよほどの望みであり、自分はそれをそれほどまでに望んでいたわけです。
人生において、人はそんなに何かを望むものなのか、と思うわけですが、それほどまでに望む事それ自体が、実は喜ぶべき事ではないかとも思ったりするわけです。