毎日の哲学の断片をつづるブログ

日々哲学することを習慣とし、思考と言葉をつづる

楽しいかどうか。意味があるか無いかは重要ではない。

人は、意味に縛られる生き物です。意味があってはじめて、あるいは、意味があると感じられて初めて、何かそれをやろうという気がしてくるわけです。

 

それに意味があると感じられないと、自分にとってそれは意味が無いわけだから、それに取り組む動機にならないわけです。意味が無い=価値が無い、わけですから。

 

それに意味があると感じられると、やっていて、安心であるわけです。だって、それをやっていて、何か意味のある事につながるわけですから。

 

意味があるという事は、きっと、今仮にそれが意味があると直接感じられないとしても、意味があるわけだから、いずれ、何らかの形に実ってくるわけです。

 

成果として現れてくるわけです。そうです。成果が、その意味を支えているわけです。

 

人は、無意識に、成果を求めているわけです。きっと、その成果とは、その時自分自身に何かを与えてくれるわけです。何か「実」をくれるわけです。

 

その「実」をもらってはじめて、意味は意味を与えられるわけで、意味とはつまり、成果としての「実」の潜在的な何か、です。

 

意味を感じている時点では、それ自身が目に見える形での、あるいは、言葉として明確に説明できる形での何かである必要はまだないんです。潜在的に、そう感じさせてくれるものであればいいんです。

 

そのように考えていくと、逆に、どれだけの事が意味があり、どれだけのやっている事が意味を保証してくれているのでしょうか。

 

さらに言えば、どれだけ意味という保証があれば、人はそれを安心して取り組めるのでしょうか。

 

案外、多くは無い気がしてきます。どれもこれも、やっていて、何か得られるものがあるのか、説明できない気がしてきます。

 

どれも、どのやっている事も、何となくやっていて、せいぜい、それが楽しければ、実際それで十分ではないかという気すらしてきます。

 

やっている事の多くは、意味で支えられてなんていないんです。

 

そして、意味で支えてくれるということのどれだけが、その後、取り組んだ結果、「実」を与えてくれたでしょうか。案外、そう多くはありません。

 

むしろ、意味なんて何も考えていなかったのに、あとになって、形として実ったということすらあるくらいです。

 

その意味で、意味なんて重要ではないんです。意味を感じなくなって、関係ないんです。意味を感じていても実らない事は多くあるんですから。

 

意味があろうが無かろうが、意味があると感じようなそうでなかろうが、そんな事自体が意味が無いんです。