この世界に、基本的に、意味なんてものは無いわけです。そもそも無いんです。
ですが、人間が意味を見出そうとしたり、意味を作ろうとしたりしています。
基本的にはこの世界には意味が無いという事自体、特に問題があるとは思いません。確かに意味なんて無いんですから。
逆に、最初から意味なんてあったとしたら、一体どんな意味があるというのでしょうか。少なくとも、人類が誕生する以前に、何か意味があって、その意味に基づいて、人間が誕生してきた、あるいは、はじめから在った意味とは関係なく、その意味では意味なく、人間が誕生してきた、そういうことなのでしょうか。
その意味では、人類が誕生する以前に、この世界に意味があった、という事も確かに否定はできないかもしれません。人間が存在する以前の意味ですから、少なくとも人類が判断する以前に意味であって、その意味の存在に是非や価値を人間は問えません。
そのように考えると、意味は人間が創り出すもの、あるいは、見出すものを捉える事は出来て、その意味では、この世界には意味なんて無いという言説は、普通に成立するわけです。
ですから、意味は、いかようにしても人間とつながっていて、人間の関係の無いところに意味なんて無く、人間こそが意味を与えていると言えるわけです。
でずが、いつだって、この世界に意味が前提してあるわけではなく、それは、人類がこの世界の全てではないからに他ならず、それは、常に意味に囚われる必要はないという事も言えるわけです。
人間は人間であるがゆえに意味に囚われるわけです。意味があるのか、無いのか。自分は意味があるのか、無いのか。自分のやっている事は意味があるのか、無いのか。
所詮、この世界には基本的には意味なんて無い事を考えれば、いつだって、別に意味が無くたっていいし、意味を見出さなくたっていいし、自分自身に、自分の行動に、自分の発言に、自分のやった事に、意味なんて見出されなくたっていいんです。
基本的には、意味なんて無いんですから。
そのように意味というものを捉えれば、逆に、人間自身が、また、自分自身が、意味あるように感じられもします。何をしていようが、何もしていなかろうが。
人間としての痕跡となりそうな何かであれば、それはいかようにも意味が見出されそうであるし、一歩足を踏み入れたならば、その地面には明らかに足跡は残り、同時に、意味という証拠が刻まれる事になるわけです。