毎日の習慣や哲学の実践をつづるブログ

毎日の習慣、考えている事、実践について、基本哲学好きとして、とにかく書き続けています。

自ら紡ぐ、無限の内面世界。

人が独りでいる時、たいてい何かを考え、自分の内面と向き合っています。自分で何かを問いかけ、自分でそれについて考える。そのようにして、まるで独り言のように、内面で何かを考えているわけです。

 

人はいつも誰かと居るわけではありません。独りで居る事は多いわけです。ですから、どうしたって、自分の内面と向き合う事になるし、自分の内面とともに時を過ごす事になります。

 

ですが、それは別に悪い事ではありません。人間にとってはそれは普通だし、むしろ、その内面が自分自身を成長させ、押し広げているとも言えます。

 

言葉は、自分の内面とともにいる時、よく使っているものですが、言葉をどのように使うかが、内面とともに、あるいは、内面の中で過ごすのには重要になってきます。

 

言葉は基本的に自由に紡げます。自分が知っている、これまでに仕入れた言葉をいかようにも活用して、内面をさらに押し広げ、充実させ、豊かにします。

 

内面を豊かにする事は、自分自身の過ごしやすさにも影響します。

 

内面は、自分にとっての文脈を支えるようなものでもありますから、無意識な領域として自分を支えているわけです。

 

考える為の資源としての言葉もその表現も、文脈の一部であるし、これまで仕入れて使ってきた言葉も、言葉の群となって文脈を構成しています。

 

文脈という背景は、内面における景色でもあり、言葉の様々な群は内面を彩っています。それは、ひとつの大きくて無限の世界です。宇宙のようなものです。

 

自分の内面は、その意味で巨大な空間です。宇宙の果ては現在でもよく分かっていませんが、自分の内面の果ては、それ以上に未知数です。

 

自分の内面は、より鮮明に、リアリティを持って、自分自身に迫ってくる場合もあり、映画館で観るリアリティよりリアルに自分の前面に存在します。

 

我を忘れて何かにとりかかっている時、内面は見失われ、無いかのように過ごしているかもしれませんが、時が経てば、また自分の内面の世界は自分の前面に立ち現れてきます。

 

そして、また、静かに、自分の言葉とともに、内面を押し広げ、彩り、これまでに自らに造ってきた世界の断片にまた出会い、何かを発掘するんです。

 

その意味で、自分はすでに自分の内面の住人です。自ら押し広げてきた無限の宇宙である内面の世界は、これからも依然としてそこにあって、ある種、ぽっかりと、でも、どこまでも大きく、開拓し彩っていく余地を無限に残し、底に内面の世界が佇んでいるんです。