人間の適応力は、生存する為に備わった基本的な性質ですが、それは動物であるがゆえに備わっているのであって、自分らしくあるということとは関係ありません。
人は生きていかないといけませんから、環境に合わせて適応する事が何においても優先されるわけで、自分らしさと関係なく、先に適応した結果の自分が育っていくわけです。
ある意味において、その適応による発達は、確かに、自分らしさを育ててもいるわけですが、自分を自由にしたり、幸せにしたりする事とは別に、それ以上の力で適応する事で形成されていくわけです。
とは言え、自分自身に不自由を感じたり、自分自身を抑圧していたり、何か我慢しているように感じたりする事もあって、その意味で、適応しているだけではない自分がその内側に育っているわけです。
まるで、二重構造のように、適応している自分の内面に、自分らしさを求める自分が形成されているわけです。
ある段階において、適応していくだけでは生きていけない事に気付き始めると、人は適応する自分よりも大きな力で内側から自分自身がせり上がってきます。
外側の、殻を被った自分を内側から突き破るようにして、自分自身が抗するように大きくなってくるわけです。
自分自身は、内側から幾重もの自分自身を年輪のごとく積み重ねてきていますから、ある段階においてその中心が既に自分自身の芯になって、確かな自分が出来上がってきているわけです。
昆虫がさなぎから殻を破って、変態して、成体としての自分自身を表すように、人間も同じく、芯を持つ強固な自分自身が、適応を重ねて形成させてきた表面の殻の突き破る時が来ているわけです。
自分自身が変態によって、どのような姿形をした自分自身が現れるのか、自分自身で表に出てみなければ分からないわけですが、とにかく、出てこないわけにはいきません。
もうすでに十分に育ってしまった自分は、どんな姿形であれ、内側に収まっているわけにはいきません。
長い適応によって内部を守ってきた外皮の自分は、確かに頑丈ではあったものの、すでに鎧であり、突き破られるもの、表面を覆っているもの、脱ぎ捨てられるものである事が分かっているわけで、いかようにしても、自分自身は内側に抑圧されたままで、我慢して縮こまっていてもしょうがないわけです。
もうその頃には、殻を破って表に出てきてもいいわけですが、まだ出てきていないとしても、いつだって遅すぎる事は無いわけです。
抑圧された自分はどんな姿形であれ、外皮を突き破って、表に出てこないわけにはいかないわけです。
もうすでに、表に出てくる準備はできているわけです。