人は生きていく上で、この世の中に対して適応しながら生きていくわけです。適応無しに生きていく事は困難であって、適応する事の先に、生きていく機会が開かれてくるわけです。
適応しながら、適応するプロセスそのものが学習であって、学習とともにその適応するプロセスを自分自身のものとして身につけていくわけです。適応する事自体が自分自身になっていくという事です。
自分自身とは、適応したプロセスそのものであって、適応の結果であるわけです。適応の結果として自分自身が形成されていくわけです。
適応というものは、環境があって適応するわけですから、その環境はその地域や時代によるわけで、適応した結果として自分が形成されていくという事は、自分自身は、その地域を反映し、その時代を反映するわけです。
地域が変われば自分も変わるし、時代も違えば自分も違ったわけです。文化が違えば自分も違う自分になるという事です。
一方で、自分自身という性質も本来あるわけです。環境に対して遺伝とも言いますが、自分自身の性質が生得的に備わっているわけです。
実際には、生得的な自分が、環境に適応しながら環境を取り込んで自分自身になっていくわけです。
その意味で、厳密には、自分自身は、完全に環境や文化を映す鏡ではないわけで、環境要因を自分に形成させながらも、生得的な自分の上に、あるいは、中に自分自身を編み込んでいくように形成されていくわけです。
そのように形成されていく自分自身が、ひとつの個体として十分な自分自身になっていくと、自分独自の自分自身がその内面に形成されているわけです。
本当の自分、といった自分が形成されていくわけです。主体的自己と言う事もできるかもしれませんし、自分らしい自分とも言えるかもしれません。
コアには主体的な自分があり、自律的で、自発的で、能動的な、自分があるわけです。
それは、いつしか、貼り付けてきた自分自身に対して反抗するかもしれませんし、脱ぎ捨てたいと思うかもしれません。
内側から、連続的に成長してくる自分自身が表に出来ようとするわけです。
この世界に適応して、それで生きる事を可能にし、内部の余地の中で新たな自分が形成されるとともに、鎧を着た自分を内側から突き破って出てきて、殻を破り、環境に適応する自分を越え出て、適応以上の力強い自分自身が出てくるわけです。
環境に適応する自分や、生得的な自分は、関係ありません。そんな事により、自分自身がどう生きるか、全て自分で決めて選んで生きないといけないわけです。